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願い通り生まれて来たかも

陽気暮らしの世界になると、出直す日時を決め、出直す先を決めて神様にお願いをすると、その通りになると、船場の初代の会長様の話にある。 あるおじいさんが出直すときの話で、おじいさんは出直すと決めた日に親戚を集めてお祝いの席を設ける。その席の中で親戚たちは「おじいさん、うちへ生まれ変わってきてください。」と口々に言うと、おじいさんは、どこそこへ生まれてやろうと言ってから息を引き取る。しばらくすると、その家に子供ができる。何年先に生まれてくるのかを神様に願っておけばその通りになるそうだ。 まだ今は陽気暮らしの世界ではないからその通りにはならない。しかし、少しはそんなことができるのかもしれない。例えば、前生の最期に、次はどこそこへ生まれて来たいと願ったのかもしれないし、次もこの人と一緒にいたいと思ったのかもしれない。 前生でどう思ったのかは神様にしか分らないことだが、神様はいつも優しいから願いを叶えてくれたのだろうと思うと、身近な人は大切にしなければならないつくづく思う。

ひのきしんは何から何まで

逸話篇の46「何から何まで 」という話がある。ひのきしんはこうやってさせてもらうものだろうと思う。ということを以前に書いたような気がするが、もう一度書いてみようと思う。 ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司が増井りんに、「それを料理するように。」と、言い付けた。りんは、出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おりんさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理しておくれ。」と言った。出刃はなかったのである。  りんは、余りのことと思ったので、ある日お暇を願うて、河内へもどった。ちょうど、その日は、八尾のお逮夜であったので、早速、八尾へ出かけて、出刃庖丁と薄い刺身庖丁と鋏など、一揃い買うて来て、お屋敷へ帰り、お土産に差し上げた。秀司もまつゑも大層喜んで、秀司は、「こんな結構なもの、お祖母様に見せる。一しょにおいで。」と促した。教祖にお目にかかって、留守にしたお礼を、申し上げると、教祖は、それをお頂きになって、 「おりんさん、何から何まで、気を付けてくれたのやなあ。有難いなあ。」 と、仰せになって、お喜び下された。りんは、余りの勿体なさに、畳に額をすり付けて、むせび泣いた、という。 神様の御用と思って何かをするときには、そのために必要なものは自分で準備する。準備するためにわざわざ時間を確保する。これがひのきしんだろうと思う。 と書いてみるとわかりにくいと思うので、誤解を恐れずにその真逆を書いてみよう。 「会長さん、これこれこういうことをしたいから、あれとこれと教会で買ってくださいな。」 は違う気がする。もちろんケースバイケースだから一概には言えないが、できることなら必要なものは自分で準備したい。 「会長さん、これこれこういうことをしたいから、あれとこれと買っといてくださいな。お金は後で支払いますから。 も違うように思う。もちろんケースバイケースであるから一概には言えないわけだが、せっかくなら買いに行くのも自分でやって、その時間を神様に受け取ってもらうべきだろう。 「会長さん、これこれこういうことをしなきゃならないから、時間があるときにやっといてくださいな。」 これは最悪だろう。 と、理論的にはわかっているつもりでも、自分もついそうなってしま...

人間をはじめかけた証拠だから

おふでさきの第十七号九番のおうたに にんけんをはじめかけたるしよこふに かんろふたいをすゑておくぞや とある。現代日本語にすれば、「人間を始めけけたる証拠に甘露台を据えておくぞや」となる。人間を始めかけた証拠として甘露台を据えておくということだが、何が証拠になるのだろうかと、そんなことを昔から考えていた。 ふと思い出したのが師匠の言葉だ。「この道は証拠信心だ」とよく仰っていた。その意味は師匠がおっしゃるには、この道は本物の神様が教えてくださったのだから、その証拠を必ずお示しくださる。この教えは本当の教えだという証拠を神様から与えてくださったからこそ、先人はこの道を真剣に通ってこられたのだと。 証拠というのは、本当の神様である証拠であり、神様の仰っていることが本当であるという証拠であって、それは何らかの具体的な現象として現れるものであると、昔はそんな意味で使われていたのだろう。 おたすけにかかったとき、わざわざ御本部の神殿まで行き、甘露台の前で願うわけだが、それで御守護を頂いたという経験は誰もが持っていると思う。甘露台に向かって願えば御守護をいただける、ということは当たり前のようであるが、それが甘露台が人間を始めだした場所であることの証拠であるということなのだろう。

余れば返す、足らねば貰う

余れば返す、足らねば貰う、という言葉をどこかで聞いて、どこで聞いたのかを忘れていた。忘れたという話を友人に言ったことがあったそうだが、言ったことを私は忘れていて、少し前に、それを覚えていてくれた友人がどこに書いてあるのかを教えてくれた。明治二十年一月十三日のおさしづだ。 理は見えねど、皆帳面に付けてあるも同じ事、月々年々、余れば返す、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。 とある。「足らねば貰う」か恐ろしいな。余るくらい尽くしておくほうが安心だ。

月次祭のおつとめと諸々

月次祭のメインは、やはりおつとめである。おつとめを勤めるために月次祭があると言っても言い過ぎではない。しかし、おつとめだけではもったいないと思う。 ある教会では、会長さんが月次祭の準備をすべてする。「信者さん」と呼ばれる人たちは、時間になると教会へやってくる。そして、おつとめ着に着替えて、おつとめを勤める。直会が始まると、ご飯を食べ、食べ終わった人から帰っていくそうだ。準備や片付けは、会長さんがすべてやるとのこと。会長さんが徳を積む教会だ。 もちろんだが、おつとめは大事だ。おつとめだけでも参拝させてもらいたいと、ない時間を割いて毎月来るのは誠真実だろう。あるいは、どうしても仕事の都合をつけられないからと、仕事を終えてから参拝に来るのも誠真実だろう。 そう断った上で敢えて言うが、せっかく月次祭の日に教会へ行くのなら、参拝するだけではなくて、何か一つでもひのきしんをさせてもらったほうがよい。 月次祭のおつとめを勤めるためにしなければならないことはたくさんある。神床や参拝場の掃除から始まり、鳴物やその他の祭具の掃除、神饌の準備、片付けなど、祭典に直接関係することはもちろん必要だし、祭典のための事務的な手続きからお金の準備まで必要なことはたくさんある。それらの一つ一つは、おつとめを勤めるのと同じくらい大事だ。 あまりでしゃばりすぎてはダメだが、せっかくなので祭典に必要なことを一つでもさせていただいて、少しでも徳を積ませてもらうほうべきだろう。

天理教でたすかりたいのなら

天理教にたすけを求めて駆け込むのなら、「たすけてください」と言うよりも、「神様の話を聞かせてください」と言うか、あるいは「神様のもとへ行かせてください」と言ったほうが良い。 おたすけについて教えてくださった私の師匠は、多くの人からおたすけ名人と呼ばれている。「癌くらいなら、すぐにたすけてくれるよ」とよく言っているし、実際に多くの人をたすけている。が、どうやったらたすかるのか、あるいはたすけることができるのかと尋ねてみても、「神様がたすけてくださる」としか答えてくれない。最初は、なぜ教えてくれないのかと不満に思ったのだが、おそらく師匠も分からないのだろう、ということが分かってきた。 「天理教は分かるもんじゃないよ。」と、関根豊松先生が仰っていたそうだ。ある師匠から教えていただいた。信仰すればするほど天理教は分からなくなると、そんなことも仰ってた。 天理教の教会にたすけを求めてくる人は、今でもたくさんいる。もちろんだが身の上話はきちんと聴くし、アドバイスできることはさせてもらう。手伝えることは手伝わせてもらう。しかし、根本的にはたすけるのは天理教の人間ではなくて神様である。ここを間違えてはならない。 私も少ないながら「おたすけ」と呼べるようなことはしているが、どの人も勝手にたすかっていくように思う。私は神様の話をさせていただいて、おつとめを一緒につとめさせていただいて、一緒に布教に出させていただく。そうこうしているうちに、勝手にたすかっていくのだから不思議だ。 人間がたすけるのではなくて神様がたすけてくださるのだから、まずは神様のもとへ行って神様の話を聞かせてもらうべきだろう。 さて、明日の祭典に備えて、ひのきしんをさせてもらいに行こうかと。

天理教がヤバいかどうか

天理教って大丈夫?と聞かれることがある。天理教がヤバい宗教だとか書かれたウェブサイトを読んだのだろう。 天理教がヤバイのかどうかと問われると、ヤバい人がいるかもしれないとしか答えようがない。天理教を信仰している人すべてと友達になることができるのなら何か答えられるかもしれないが、それには数が多すぎる。 天理教と言っても、やっいていることは人にってかなり違う。それは他の宗教もそうなのではないかと思う。例えば、仏教と言っても、宗派によってかなり違いがある。キリスト教と言っても、ずいぶん違いはあるだろう。 天理教の教会は、一応のところは教会本部に包括されているから同じようなものに見えるかもしれないが、そうではない。私の住んでいるところの近くにいくつも教会があって、そこの会長さんくらいは知っているが、細かいことは何も知らない。 系統によって異なると言う人もいるが、そうとも限らない。例えば、私に御教理を教えてくれたのは他の系統の先生だし、おたすけの仕方を教えてくれたのも、また別の系統の先生だ。 教理として学ぶことは、おそらく同じだろうし、普通に教理を実践していれば、悪いことはしないはずだ。少なくとも私の周りには、悪いことをする人はいないと思う。が、まあ、人間のやることはわからない。教理を利用して自分の利益になることしかしないような人がいるかもしれない。 付き合う人は自分で見極めなければならないいうことを、わざわざ私が言うのもおかしいが、世の中そんなもんだ。 自分の周りにヤバい人がよってくるとしたら、それは自分の魂の問題なのだから、天理教がヤバいかどうかよりも、自分の魂の因縁がヤバいのかどうかを考えたほうが良いと、私は思う。