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逸話篇二十六 麻と絹と木綿の話

麻はなあ、夏に着たら風通しがようて、肌につかんし、これ程涼しゅうてええものはないやろ。が、冬は寒うて着られん。夏だけのものや。三年も着ると色が来る。色が来てしもたら、値打ちはそれまでや。濃い色に染め直しても、色むらが出る。そうなったら、反故と一しょや。絹は、羽織にしても着物にしても、上品でええなあ。買う時は高いけど、誰でも皆、ほしいもんや。でも、絹のような人になったら、あかんで。新しい間はええけど、一寸古うなったら、どうにもならん。そこへいくと、木綿は、どんな人でも使うている、ありきたりのものやが、これ程重宝で、使い道の広いものはない。冬は暖かいし、夏は、汗をかいても、よう吸い取る。よごれたら、何遍でも洗濯が出来る。色があせたり、古うなって着られんようになったら、おしめにでも、雑巾にでも、わらじにでもなる。形がのうなるところまで使えるのが、木綿や。木綿のような心の人を、神様は、お望みになっているのやで。 神様がお望みになる心を表した逸話だ。神様の目から見て使い道が広く、いつまでも使うことができるというのがようぼくのあるべき姿である。 自分にしかできないことを活かして御用を勤めさせていただきたい、というのは違うのだろう。「私は○○の資格を持っていますので、きっと教会の力になれます。」というのは、入信したての人なら良いかもしれないが、神様のお望みになる心ではない。 誰でもできるが誰もやりたがらないことこそひのきしんだ!とある先生が仰っていたのを思い出した。なるほど。

逸話篇四六 何から何まで

全文を引用する。 ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司が、増井りんに、「それを料理するように。」と、言い付けた。りんは、出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おりんさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理しておくれ。」 と言った。出刃はなかったのである。 りんは、余りのことと思ったので、ある日お暇を願うて、河内へもどった。ちょうど、その日は、八尾のお逮夜であったので、早速、八尾へ出かけて、出刃庖丁と薄い刺身庖丁と鋏など、一揃い買うて来て、お屋敷へ帰り、お土産に差し上げた。秀司もまつゑも大層喜んで、秀司は、「こんな結構なもの、お祖母様に見せる。一しょにおいで。」 と促した。 教祖(おやさま)にお目にかかって、留守にしたお礼を、申し上げると、教祖は、それをお頂きになって、 「おりんさん、何から何まで、気を付けてくれたのやなあ。有難いなあ。」 と、仰せになって、お喜び下された。りんは、余りの勿体なさに、畳に額をすり付けて、むせび泣いた、という。 神様の御用を勤めさせていただくとき、必要なものはすべて自分で揃えるくらいの心でいれば、おやさまは喜んでくださるのだろう。 魚をさばく包丁がないからと言って、「お屋敷の会計で包丁を買ってください」と、増井りん先生は仰らなかった。誰かにお金を渡して包丁を買って来るように言いつけたわけでもない。自分で歩いて行き、自分のお金で包丁を買って、それを使って御用を勤められたのである。 足りないものがあれば自分で揃えてお供えすればよい。「もの」だけではない。こういう人が必要だと思えば、自らがそうなれば良い。足りないものに気がつくと言っても、自分で気づいているのではなく、神様が気付かせて下さっているのであって、そこが徳を積むチャンスだ。 組織が大きくなり、立場ができてくると、こういうことを忘れてしまう。必要なものは会計から出してもらおうなどと言ったりするものである。 「お守り所のコーヒーがないで!」と青年さんに怒鳴り散らす役員など、一ミリも見習わなくて良い。

ひのきしんは何から何まで

逸話篇の46「何から何まで 」という話がある。ひのきしんはこうやってさせてもらうものだろうと思う。ということを以前に書いたような気がするが、もう一度書いてみようと思う。 ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司が増井りんに、「それを料理するように。」と、言い付けた。りんは、出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おりんさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理しておくれ。」と言った。出刃はなかったのである。  りんは、余りのことと思ったので、ある日お暇を願うて、河内へもどった。ちょうど、その日は、八尾のお逮夜であったので、早速、八尾へ出かけて、出刃庖丁と薄い刺身庖丁と鋏など、一揃い買うて来て、お屋敷へ帰り、お土産に差し上げた。秀司もまつゑも大層喜んで、秀司は、「こんな結構なもの、お祖母様に見せる。一しょにおいで。」と促した。教祖にお目にかかって、留守にしたお礼を、申し上げると、教祖は、それをお頂きになって、 「おりんさん、何から何まで、気を付けてくれたのやなあ。有難いなあ。」 と、仰せになって、お喜び下された。りんは、余りの勿体なさに、畳に額をすり付けて、むせび泣いた、という。 神様の御用と思って何かをするときには、そのために必要なものは自分で準備する。準備するためにわざわざ時間を確保する。これがひのきしんだろうと思う。 と書いてみるとわかりにくいと思うので、誤解を恐れずにその真逆を書いてみよう。 「会長さん、これこれこういうことをしたいから、あれとこれと教会で買ってくださいな。」 は違う気がする。もちろんケースバイケースだから一概には言えないが、できることなら必要なものは自分で準備したい。 「会長さん、これこれこういうことをしたいから、あれとこれと買っといてくださいな。お金は後で支払いますから。 も違うように思う。もちろんケースバイケースであるから一概には言えないわけだが、せっかくなら買いに行くのも自分でやって、その時間を神様に受け取ってもらうべきだろう。 「会長さん、これこれこういうことをしなきゃならないから、時間があるときにやっといてくださいな。」 これは最悪だろう。 と、理論的にはわかっているつもりでも、自分もついそうなってしま...

ひのきしんの態度

態度に表すというのは、わざわざしなくてもできることもあるが、意識したほうが良い場合もある。理論的に考えて、理の立つように行動すれば良いと私は思う。 ある作業があって、それがひのきしんの場合と仕事の場合とで力の入れ方は違う。悲しいことだが、ひのきしんだから手を抜くという人もいる。 例えば、屋外での作業があったとして、雨が降ったときに、仕事ならカッパを着てでもするという人がいるのなら、ひのきしんでならもちろんカッパを着てでもするべきだろう。 ひのきしんをすることで目に見えない徳をいただける。この徳で生きていくことができるのだから、お金をもらえるだけの仕事よりは尊い。 そう考えるのなら、仕事よりもひのきしんのほうを真剣にするのが自然だ。 まあ、考え方はそれぞれだから何とも言えないが、「ひのきしんなんだから、そんなに真面目にしなくてもいい」なんて言う人のことは聞かなくても良いと思う。