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逸話篇四二 人を救けたら

おふでさきに わかるよふむねのうちよりしやんせよ 人たすけたらわがみたすかる とあるのは、誰もが知っていることであろう。逸話篇の四十二の中でおやさまは、 村の中、戸毎に入り込んで、四十二人の人を救けるのやで。なむてんりわうのみこと、と唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んで廻るのやで。人を救けたら我が身が救かるのや。 と仰っている。何か難しいことをせよと仰るのではなく、手を合わせて拝めと仰るのである。 何もできないから人だすけはできないと思う必要はない。たすけてくださいと神様にお願いをするだけで良い。それが我が身まで救けていただけるのが天理教のおたすけである。 素晴らしい技術や知識があるから人をたすけることができるというのは間違い。それこそ高慢のほこりであろう。

救かるよ

高見庄蔵先生と言えばロンドン布教へ行かれたことがあまりにも有名で、それ以外の話はあまり聞かないが、あるとき、先生に救けていただいたという人の話を聞いたことがあるので、忘れぬようにここへ書いておこうと思う。 その方は、お母さんの病気をたすけてもらいたいと思い、庄蔵先生に相談をした。一通り話を聞いた後、先生は一言、「救かるよ」と仰った。その方は、その一言でたすけてもらえると確信したそうだ。母を救けてもらえるのなら何かさせてもらおうと思い、御恩報じの道に入られたそうだ。 師匠から仕込まれたことを思い出した。 おたすけに行ったら、「必ず救けていただけますから心配しないでください」と最初に言いなさい。 確かにそうだな。

天理教でたすかりたいのなら

天理教にたすけを求めて駆け込むのなら、「たすけてください」と言うよりも、「神様の話を聞かせてください」と言うか、あるいは「神様のもとへ行かせてください」と言ったほうが良い。 おたすけについて教えてくださった私の師匠は、多くの人からおたすけ名人と呼ばれている。「癌くらいなら、すぐにたすけてくれるよ」とよく言っているし、実際に多くの人をたすけている。が、どうやったらたすかるのか、あるいはたすけることができるのかと尋ねてみても、「神様がたすけてくださる」としか答えてくれない。最初は、なぜ教えてくれないのかと不満に思ったのだが、おそらく師匠も分からないのだろう、ということが分かってきた。 「天理教は分かるもんじゃないよ。」と、関根豊松先生が仰っていたそうだ。ある師匠から教えていただいた。信仰すればするほど天理教は分からなくなると、そんなことも仰ってた。 天理教の教会にたすけを求めてくる人は、今でもたくさんいる。もちろんだが身の上話はきちんと聴くし、アドバイスできることはさせてもらう。手伝えることは手伝わせてもらう。しかし、根本的にはたすけるのは天理教の人間ではなくて神様である。ここを間違えてはならない。 私も少ないながら「おたすけ」と呼べるようなことはしているが、どの人も勝手にたすかっていくように思う。私は神様の話をさせていただいて、おつとめを一緒につとめさせていただいて、一緒に布教に出させていただく。そうこうしているうちに、勝手にたすかっていくのだから不思議だ。 人間がたすけるのではなくて神様がたすけてくださるのだから、まずは神様のもとへ行って神様の話を聞かせてもらうべきだろう。 さて、明日の祭典に備えて、ひのきしんをさせてもらいに行こうかと。

「においがけ」と「おたすけ」の区別は難しい

「においがけに行って来ます」と言えば、戸別訪問や神名流し、路傍講演などをしにいくという意味になるわけで、これは便宜上、そういう意味の言葉とし「においがけ」と言っているわけたが、実際ににおいがけをするのは人間ではない。おさしづに、 どんな処にをい掛かるも神が働くから掛かる。 とある。 においがけの主体は神様であって、人間が頑張ってどうにかなるものではない。おたすけも同じで、具体的には神様の話を取り次いでおさづけを取り次ぎ、お願いづとめをするくらいのことしか人間にはできない。たすける主体は神様だ。 においがけのつもりで戸別訪問をして神様の話をさせていただいただけでたすかる人もいる。そのときはたすからなくても、後になってたすかることもある。 10年以上も前に教会で話を聞いたことがあるという人に、天理教でたすけてほしいと言われたことがある。結果として大きな御守護をいただいたわけだが、それは私だけの手柄ではない。最初に話を取り次いだ先生がいなければ、その人はたすからなかっただろう。そう考えれば、神様が10年以上の時間をかけておたすけくださったわけで、その一連の中でにおいがけがあったわけだから、どこまでがにおいがけで、どこからがおたすけかという区別はできない。 強いて言うのなら、においがけというのは、すでにおたすけをしていることになるわけだ。そう考えれば、パンフレットを配っているだけで大きな御守護をいただく人がいるのも納得できる。

おたすけじゃないよ。おたすかりだよ。

おたすけをしないと家の中に助けてもらわなきゃならない困ったことが起きるよ。おたすけじゃないよ。おたすかりだよ。 愛町分教会の関根豊松先生が仰ったそうだ。なんとなく脅迫のようなイメージを持つ人もいるようだが、そうではない。陽気ぐらし世界建設を急き込まれる親神様の温かい親心であるということを理解しなければならない。 親神様が人間をお創りくだされた目的は、今更言うまでもなく陽気ぐらしを見て共に楽しむことである。しかし、人間はその目的を知らず、悪い因縁を積んできた。それが元で、とても陽気とは言えないような生活を送っているものもいるのである。親神様はこのような人間を何とかして助けたいと、常にそうお考えになっているのである。 人間は陽気ぐらしをするために創られたのだから、悪い因縁さえ切ってしまえば自ずと陽気ぐらしができるのである。因縁を切る方法は二つあって、一つは因縁通りに苦しむこと、そしてもう一つはおたすけをすることであるとお教えいただく。 親神様は因縁を切ってやりたいと思し召されるわけだが、かわいい我が子である人間を苦しめたいとは思わない。何とかして苦しまずに因縁を切ってやりたいという思いから、おたすけをさせてやりたいと、こう思し召されるのである。 人間が自ら進んでおたすけをするのが理想的だ。しかし、それをしない人間もいるだろう。自分ではおたすけに取りかかれない人に対しても、親神様はおたすけをさせてやりたいと思し召される。そして、どうやってもおたすけせざるをえない状況を用意してくださるのである。その一つの方法が、家族に身上や事情を見せることである。家族なら生活をともにしているのだから、おたすけしないわけにはいかないだろう。 なんとありがたい親心だろうか。 ただ、人間としては、家族に困った人が現れるのは、あまり好ましいことではないと考えるのが普通だ。それなら、外に向かっておたすけをするべきだろう。

因縁

因縁というと、悪いものを思い浮かべてしまいがちだが、そうではない。そもそも因縁という言葉は仏教で用いられていた言葉で、天理教はその言葉を流用しているのであって、意味は異なる。 人間の身体は親神様のものであり、人間は身体をお借りしている。この世に生まれてくるという現象は、魂が親神様から新しい身体を借りることであり、死ぬという現象は神様に身体をお返しすることを意味する。死んだ後は、また新しい身体を借りてこの世に生まれてくる。魂は生き通しで、生まれ変わりを繰り返しているから、天理教では「死ぬ」と言わず、その代わりに「出直す」と言う。古い着物を脱ぎ捨てて新しい着物に着替えるようなものだとも教えていただく。 どれだけ多くの財産を築いたとしても、それを次の人生に持っていくことはできない。また、技術や知識なども持っていくことは出来ない。魂は財産も技術も知識も持つことはできないのである。しかし、何も持っていくことが出来ないのかというと、そうではない。人生の中で良いことも悪いこともするわけだが、それは魂に刻まれているのである。これが因縁である。 他の人と同じように暮らしていても、何をやってもうまくいく人はどこにでもいるものだが、おそらくこの人の魂は、ずっと人様のために良いことをしてきたのだろう。 このように言うと、人生は不公平なものに思えるかもしれないが、そうではない。親神様が人間をお創りになった時には、人間の魂には良い因縁も悪い因縁もなかった。それが、生まれ変わって長い年月が経つ間に、良い心遣いも悪い心遣いもし、それが魂に因縁として刻まれたのである。 このように考えていくと、「私の因縁はさぞかし悪いのだから、もう何をしてもダメだ」と思う人もいるだろう。確かにそう考えられなくもないのだが、そもそも因縁というものは、それほど恐ろしいものではない。もしも因縁通りにしか生きることが出来ないのなら、ずっと悪いことばかりしてきた魂を持つ人は苦しみ続けなければならないだろう。しかし、神様は悪い因縁を切る方法も教えてくださっているのである。それが、「たんのう」と「おたすけ」である。 因縁を切る方法を知らない人にとって、因縁は非常に恐ろしいものだろう。しかし、天理教の教えを知っていれば因縁を切る方法を知れるのだから、これほどありがたいことはない。もともと、人間は陽気ぐらしをす...

誠真実の心で因縁を果たす

前生の因縁を果たすには二つの方法がある。一つは自らが通って果たすことであり、もう一つはおたすけをすることである。 自らが通るというのは分かりやすい。例えば、前生で他の人を苦しめてきたのなら、その分だけ自分が苦しめば、それで果たすことができる。非常に分かりやすい。が、これは何も天理教が教えなければならないことでもないだろう。 天理教が教えるとすれば、そこで埃を積まないようにすることではないかと。前生のことを覚えている人はいないのだから、今生に悪いことが起こってくると、人間は納得ができない。そこで、その原因は自分ではないのだと、そう思いたがる。 例えば誰か他の人が原因で苦しんでいるということもあるだろう。表面的には確かにそうであっても、根本的な原因は因縁である。自分を苦しめた人を何とか排除すれば良いと思うかもしれないが、そうすると別の人がやはり自分を苦しめることになる。原因は自分の因縁にあるのだから、それは仕方がない。 何をしても自分が苦しまなければならないようになるのは、それも因縁を果たさせてやりたいという親神様の親心なのだが、人間には中々理解できない。教えを知っていたとしても、本当に苦しんでいる時には冷静に考えることも出来ないだろう。理解できなくても果たせるのだから、それはそれで良い。 ただ、苦しんでいる時には埃を積みやすい。「私が苦しんでいるのはアイツのせいだ」などと恨みの埃を積んでしまったり、癇癪を起こして腹立ちの埃を積んでしまったりすると、苦しんだことによって因縁を果たせたとしても、新たな埃で新たな因縁をつけてしまう。だから、たんのうしなければならないのだ。 神様は「人助けたら我が身助かる」と明確におっしゃっているのだから、自分が苦しみたくなければ人を助ければ良い。願えば神様は人を助けさせてくださる。おたすけで因縁を果たすというのが、もう一つの方法だ。 どちらかが一方的に良いということはなくて、おそらく両方必要なのだろうが、どちらが効率的なのかといえば、おたすけである。 おさしづに、「真実誠の心、一粒万倍の善き理を渡す。悪しきは神は利を付けはせんで。」とある。悪しき心に対しては「利を付けはせん」と仰せ下さるのだから、苦しめた分だけ苦めば良い。というより、苦しめた分だけは苦しまなければならない。 ...