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前生因縁のさんげはたんのうだけではない

「たんのうは前生いんねんのさんげ」という言葉はあまりにも有名なのだが、たんのうして通るだけなら、何も天理教を信仰する必要はない。どんなことが起こっても、それを前向きに捉えて受け止めるというのなら、世間で言うプラス思考と何も代わりはない。因縁ということを理解することで、不都合なことが起こった時に、「これがさんげになる」と考えれば、ただそれを受け入れやすくなるだけのことだろう。 「たんのうは前生いんねんのさんげ」だが、前生いんねんのさんげはたんのうだけではない。「人助けたら我が身助かる」というのだから、たんのうを中心において守りの信仰をするよりも、おたすけを中心において攻めの信仰をするほうが、因縁納消の道を通りやすいのではないかと。

たんのうは前生因縁のさんげだが…

「たんのうは前生因縁のさんげ」と教えられる。これは事あるごとに教えられていて、例えば明治二十年のおさしづに、「そこで、たんのうと心を定めるは、前生のさんげとなる。」や、「いんねん一つのさんげはたんのう一つの理を治め。」などとある。今ある苦しい状況を喜ぶことによって、前生に積んできた因縁を許してくださるのである。だから何があっても喜ぶことが大事だ。 何があっても、それを喜んで受け入れることができれば良いわけだが、なかなかそれができないのが人間である。たんのうというのは喜びの心だという人もいるが、自然と喜べるようなものではないだろう。苦しみ悩んで因縁を理解し、感情的には受け入れられなくても我慢し、無理やり喜ぶくらいでないと前生因縁のさんげにはならないだろうと私は思う。 例えば「成らん中たんのう、治められん処から治めるは、真実誠と言う。前生いんねんのさんげとも言う。」や、「ならん中たんのうするは、前生さんげ/\と言う。」、あるいは「出けんたんのうするは、前生いんねんのさんげ。」というように、どうにもならないことを抱えて、それでもたんのうすることで前生因縁のさんげとなるわけである。おさしづの文章を読めば簡単なように思えるかもしれないが、実際にはかなり苦しんだり悩んだりしているところでたんのうをしなければならないのだろう。 本当に苦しんだり悩んだりしているときには、たんのうできそうにもないのだが、それが分かるようにと神様は計らってくださる。それが「世上いんねん見てさんげえ。」や、「世上見てすれば治まらんやない。」というように、世上を見ることによってたんのうができ、それによってさんげができると仰る。もしもお道を通っていなかったらどうなっていたのかというのは、実際にお道を通っている自分にはわからないものであるが、それは「世上へ映してある」と仰る。明治二十年十二月十一日のおさしづには、 何で一つよう成らん。よう成らんではない。前々のさんげせと言うても分かるまい。神は世界四方正面として鏡に皆映してある。それ難儀な/\者も同んなし兄弟。俺もあんな身ならなあと、やれ/\たんのう、たんのうは誠より出やせん。 とある。お道を通っているからあんなひどいことにはなっていないのだということが分かるように、神様は世上に映してくださるのである。布教に歩かせていただいていれば、同じよう...