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八つの埃を心に治める

八つの埃は、天理教の基本教理の一つで、天理教の人ならおそらく誰でも知っていることだろう。しかし、知っているだけでは何にもならない。確かにそうだと思っているだけでは何もならない。明治三十二年七月二十三日のおさしづに、 日々八つ/\のほこりを諭して居る。八つ諭すだけでは襖に描いた絵のようなもの。何遍見ても美し描いたるなあと言うだけではならん。めん/\聞き分けて、心に理を治めにゃならん。この教というは、どうでもこうでも心に理が治まらにゃならん。あちら話しこちら話し、白いものと言うて売っても中開けて黒かったらどうするぞ。 神様の仰る「心」という言葉は、記憶や思考、あるいは精神という意味ではなく、身の行いのことだ。頑張ってそれを覚えたとしても、それが行動に現れていなければ意味がない。

病の元が心なら精神病は助からない?

みかぐらうたの十下り目に「やまひのもとハこゝろから」とある。「病の元は心から」である。では、心を病んでしまったらどうなるのだろうか。 昔、ある先生から「病の元は心からというのだから、精神病になると天理教ではなかなか御守護いただけない。」と言われたことがある。世界一列を助けたいと仰る神様が、精神病だけは助けないということがあるはずがない。その先生は精神病のおたすけが苦手なだけだろう。精神病であれ何であれ、医者の手余りは神様が助けてくださるのである。現に私の周りには助かった人がたくさんいるし、現在もおたすけの最中だ。 心の病になるとどうしようもないと考えるのは、言葉遊びとしては妥当なのかもしれないが、おやさまはおたすけをされている。「気の違い」あるいは「気の間違い」と表現されているものは、おそらく精神病だろう。 ここで注意しておかなければならないのは、「病の元は心から」の「心」という言葉と、「心の病」の「心」という言葉は意味が違うということだ。現代の我々が「心の病」と言った場合の「心」は「精神」という意味だが、おやさまの仰る「心」はそうではない。同じ「心」という言葉であっても、時代が違えば意味が異なるのは当然だ。中学か高校で古典を習っていれば、それくらいは分かるだろう。 我々が日常的に使う「心」という言葉と、神様が仰る「心」という言葉は意味が違う。「病の元は精神」からではない。 おさしづには「精神」という言葉は使われているが、その場合には「心」と同じような意味で用いられているように思う。おさしづの「精神」という言葉の意味と、我々が使う「精神」という言葉の意味も全く同じではないという点にも注意しなければならない。 何が言いたいのかというと、世界一列を助けたいと仰る神様は精神病の人も助けてくれるという、至極当たり前のことを言いたいだけだ。