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一一四 よう苦労して来た かしものかりものの理の本質は因縁

 逸話篇の114「よう苦労して来た」に泉田藤吉先生の話が出ている。初めて読んだときに違和感を覚えた。が、最近、謎が解けた。ある先生の一言だ。「かしものかりものの理の本質は魂の連続性だよ」、この一言だ。つまり、本質は因縁である。このことを踏まえて逸話篇を読むと分かりやすい。 泉田藤吉先生は十三峠で追い剥ぎに遭遇する。その時、かしものかりものの理が頭に浮かんだ。追い剥ぎが「前生に貸したものを早く返してくれ!」と言っているように思ったのだろう。 それで、着物と財布を差し出した。「前生からお借りしていたものをお返しします。ありがとうございました。」、という気持ちだったに違いない。 しかしそれは泉田先生の勘違いであって、追い剥ぎは何も盗らずにその場を去った。先生は着物を着て再びおぢばへと歩き始めた。 こういう話であろう。かしものかりものの理が心におさまるというのはこういうことなのだろう。

かしもの・かりもの

天理教を信仰する上で最も大事なことは、かしもの・かりものの理合いを納得することである。おふてさににも、 めへ/\のみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん 三号 13 とある。このかしもの・かりものの理合いが分からなければ、天理教の話は何もわからず、本当の信仰は出来ないのである。 我々人間から見れば神様から身体を借りており、神様から見れば貸しているということになる。また、この世界は親神様の身体であるとも教えていただく。我々は親神様から日々、御守護を頂いて生かされている。 人間が身体を神様から借りて生かされているのなら、人間は神様の操り人形なのかというとそうではなくて、一人ひとりの心には自由を許されているという点が大事だ。つまり、神様のものを自由に使わせていただいているのである。 「心一つが我の理」、「心ひとつが我のもの」とお教え頂く。この世の中で自由になるのは自分の心だけで、あとは自分の思い通りにはならない。それを納得しなければならない。 その自由になる心は、誤った使い方もできる。これを埃に例えてお教え下さる。心に埃を積むと、病気などで苦しまなければならなくなる。天理教の教えの中には、バチが当たるとか、懲らしめるとか、そういったことはない。「我が身恨み(わがみうらみ)」てあり、悪いことが起こるのは心遣いが間違っているからであると仰せられる。心を入れ替えることによって健康を取り戻すことができるのである。 体は神様のものであるから、すべてを自由にできるわけではない。例えば、心臓の動きを自由にコントロールできる人はいないだろう。体の中で自由に使うことのできるものを「九つの道具」とお教え頂く。具体的には目、耳、鼻、口、両手、両足、男女の道具だ。目と耳は二つずつあるが、働きは二つで一つだから、ここでは一つとして数える。手足は二本ずつあり、異なる働きができるから別々に数える。 借りたのなら借り賃を払わなければならないのだが、神様はタダで貸してくれているのだから、何か御礼をするべきだろう。 その御礼は、正しい心遣いで生きることである。言い換えれば、陽気ぐらしをすることである。埃の心遣いを続けてきたのなら、それを改めることが必要である。何を見ても喜び、何を聞いても喜ぶ、何を味わっても喜ぶ。こういったことで、親神様は喜んでくださるのである。