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夜勤のときに読もうかと

教祖電の第三章より。  六十の坂を越えられた教祖は、更に酷しさを加える難儀不自由の中を、おたすけの暇々には、仕立物や糸紡ぎをして、徹夜なさる事も度々あった。月の明るい夜は、 「お月様が、こんなに明るくお照らし下されて居る。」 と、月の光を頼りに、親子三人で糸を紡がれた。秀司もこかんも手伝うて、一日に五百匁も紡がれ、 「このように沢山出来ましたかや。」 と仰せられる日もあった。普通、一人一日で四十匁、夜業かけて百匁と言われて居たのに比べると、凡そ倍にも近いお働き振りであった。 すべきことをしながら夜勤で生計を立てると眠れなくて泣きそうになることもあるが、これもひながたにある。

天理教について聞いてみた

 chatGPTが天理教のことを知っているのかどうか気になったので聞いてみた。 (私)天理教はご存知ですか? (chatGPT)はい、天理教については一般的な情報を知っています。 天理教は、日本の新宗教の一つで、1882年に中山みきが創設しました。天理教は、神道や仏教、道教などの要素を取り入れながら、独自の教義や実践を持っています。天理教は、人間の本性を神とともに生きることによって発揮することを教え、信徒に自己の開発や社会貢献を促します。 また、天理教は日本国内に本部を置くとともに、世界各地に教会を設けています。天理教は、一部の信徒が過激な思想や行動をとることがあったことで知られていますが、一般的には平和的な宗教団体として知られています。 神道系の宗教団体と言われるかと思ったら、神道と仏教と道教か。「なむてんりわうのみこと」の「なむ」があるから仏教で、「みこと」があるから神道とか聞いたことはあるが、道教に関する知識はない。時間があったら勉強してみよう。それより、「自己の開発」が気になるので聞いてみた。 (私)「自己の開発」とは何ですか? (chatGPT)「自己の開発」とは、個人が自己の可能性を最大限に引き出し、より充実した人生を送るために自己を磨き上げることを意味します。天理教の教義においては、神とともに生きることが目的であり、自己の開発は神との関係を深め、神の目的に合致する人生を生きるための手段として位置づけられています。 自己の開発には、知識や技能の習得、自己啓発、精神的な成長、健康管理などが含まれます。天理教では、日々の生活の中での礼儀正しさや感謝の心、思いやりなども自己の開発につながるとされています。このように、自己の開発は個人の成長だけでなく、社会に貢献することにもつながるとされています。 (私)なるほど。ありがとうございます。 (chatGPT)どういたしまして。他に何か質問があれば、お気軽にお聞きください。 恐らく「自己の開発」とは「成人」のことだろう。しかし健康管理が含まれるとは…、と思う。断食とか水垢離とかしてる私は成人できなさそうだな。とか色々考えながら、消化不良のように思っていたが、もしかしたらと思って聞いてみた。 (私)こんばんは。仕事の休憩中です。先程の天理教について日本語で教えてくれましたが、あなたは天理教のことを日本語で学びま...

天理教でたすかりたいのなら

天理教にたすけを求めて駆け込むのなら、「たすけてください」と言うよりも、「神様の話を聞かせてください」と言うか、あるいは「神様のもとへ行かせてください」と言ったほうが良い。 おたすけについて教えてくださった私の師匠は、多くの人からおたすけ名人と呼ばれている。「癌くらいなら、すぐにたすけてくれるよ」とよく言っているし、実際に多くの人をたすけている。が、どうやったらたすかるのか、あるいはたすけることができるのかと尋ねてみても、「神様がたすけてくださる」としか答えてくれない。最初は、なぜ教えてくれないのかと不満に思ったのだが、おそらく師匠も分からないのだろう、ということが分かってきた。 「天理教は分かるもんじゃないよ。」と、関根豊松先生が仰っていたそうだ。ある師匠から教えていただいた。信仰すればするほど天理教は分からなくなると、そんなことも仰ってた。 天理教の教会にたすけを求めてくる人は、今でもたくさんいる。もちろんだが身の上話はきちんと聴くし、アドバイスできることはさせてもらう。手伝えることは手伝わせてもらう。しかし、根本的にはたすけるのは天理教の人間ではなくて神様である。ここを間違えてはならない。 私も少ないながら「おたすけ」と呼べるようなことはしているが、どの人も勝手にたすかっていくように思う。私は神様の話をさせていただいて、おつとめを一緒につとめさせていただいて、一緒に布教に出させていただく。そうこうしているうちに、勝手にたすかっていくのだから不思議だ。 人間がたすけるのではなくて神様がたすけてくださるのだから、まずは神様のもとへ行って神様の話を聞かせてもらうべきだろう。 さて、明日の祭典に備えて、ひのきしんをさせてもらいに行こうかと。

天理教がヤバいかどうか

天理教って大丈夫?と聞かれることがある。天理教がヤバい宗教だとか書かれたウェブサイトを読んだのだろう。 天理教がヤバイのかどうかと問われると、ヤバい人がいるかもしれないとしか答えようがない。天理教を信仰している人すべてと友達になることができるのなら何か答えられるかもしれないが、それには数が多すぎる。 天理教と言っても、やっいていることは人にってかなり違う。それは他の宗教もそうなのではないかと思う。例えば、仏教と言っても、宗派によってかなり違いがある。キリスト教と言っても、ずいぶん違いはあるだろう。 天理教の教会は、一応のところは教会本部に包括されているから同じようなものに見えるかもしれないが、そうではない。私の住んでいるところの近くにいくつも教会があって、そこの会長さんくらいは知っているが、細かいことは何も知らない。 系統によって異なると言う人もいるが、そうとも限らない。例えば、私に御教理を教えてくれたのは他の系統の先生だし、おたすけの仕方を教えてくれたのも、また別の系統の先生だ。 教理として学ぶことは、おそらく同じだろうし、普通に教理を実践していれば、悪いことはしないはずだ。少なくとも私の周りには、悪いことをする人はいないと思う。が、まあ、人間のやることはわからない。教理を利用して自分の利益になることしかしないような人がいるかもしれない。 付き合う人は自分で見極めなければならないいうことを、わざわざ私が言うのもおかしいが、世の中そんなもんだ。 自分の周りにヤバい人がよってくるとしたら、それは自分の魂の問題なのだから、天理教がヤバいかどうかよりも、自分の魂の因縁がヤバいのかどうかを考えたほうが良いと、私は思う。

天理教をするとは

天理教をやっていれば、大体のことは何とかなるとは思っている。と、そんな話をしていたときに、「天理教をやるっていうのは、何をすることなの?」と聞かれたことがある。 もちろんだが、同じことをしていても、めんどくさいなあと思ってやっているのと、ありがたいなあと思ってやっているのとでは大きな違いがあるというのは当然のことだと断っておかなければならないが、天理教の人間がやることと言えばおつとめ、ひのきしん、においがけおたすけの3つしかない。 どれも、自分のためではなく、神様のため、人様のためにさせていただく行為だ。自分のために何をしても神様が喜んでくださるわけはない。何をするにも我が身のことは考えず、神様に喜んでもらえるよう、人様に喜んでもらえるようように心がけていくべきであって、そのためにひながたを学んだり、先人の話を聴いたりすることが必要になる場合もある。が、行動することのほうが大事だろう。

天理教は転換期に来ているとか来ていないとか

天理教は転換期に来ていると、そんなふうに言う人がいる。転換期とは何だろうか。ある時点で転換をしたのかどうかというのは後になって分かることであって、その時点ではわからない。ノイズがあるからだ。 単純なモデルを考えてみると、例えば信者数が分かりやすいだろう。信者数が増加している状態から現象している状態へと移った時には、転換期であったと言えるだろう。しかし、増加している状態の時に、そろそろ転換期だと判断することはできない。人間は未来を見ることはできないのだから。実際に減少に転じてから、転換期があったのだと分かる。 しかし、これも大きな流れで見なければわからないわけで、何らかの要因で一時的に増加することもあるだろう。短期的な増加と長期的な増加を一緒にしてはいけない。今日、偶然にも大幅な増加があったとしても、10年単位で見た場合に減少していることもある。短期的な変動によるノイズは常に発生するだろうから、局所的な部分を見て判断するべきではない。 では長期的、短期的とはどのような期間なのかというと、これも実は後になってみなければわからない。現時点では、立教から現在までが最も長い期間だが、何千年もの未来から見ればごく短期的なものでしかない。 何万年後かの人から見れば、今の我々はおやさまがご存命の時と大して変わらないと、私の師匠はよく言う。今の我々から見れば転換期に見えたとしても、何万年も経ってから今を見れば、立教から今までの変化は微々たるものであって、ノイズにすぎないのではないかと。 まだまだ小さい集まりでしかないのだし、まだ百何十年かしか経っていないのだから、あまり細かい変動に気を取られるべきではないだろう。大きなトレンドを見れば、確実に教えは広まっているのだから。