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開門神事が再開されるとか

 今年は西宮神社の開門神事が再開されるそうだ。開門と同時に多くの人が一番に参拝するために境内地を駆け抜ける。3着までの3人が福男となることができる。 もともと自然発生的に始まった行事だが、時代とともに変化を積み重ねてきた。例えばスタートの位置をくじ引きで決めるようになったり、安全を確保するためにカーブの内側の露店を撤去したりと。 全く同じことをずっと続けてきたのではない。残すべきものを残すために変えるところは変えていくということを繰り返して今のような形で残っている。 我々も学ぶべきであろう。伝統を残すためには、ただ同じことをしていれば良いのではない。何を残したいのかを明確化し、そのために何を変えていくのかを考えていかなければならない。

文化とか伝統とか

 ある熱心な信者さんから聞かせていただいたこと。子供が学校へ通い始めると、学校でいろんな遊びを覚えてくる。上の学年の子から教えてもらうそうだ。その子が上の学年になれば、また下の子に教えていく。そうやって、いろんな遊びが伝えられていくそうだ。 我々は文化だとか伝統だとか、そういうものを大切にしているが、そもそもそれをやり始めたのが誰なのかということが分からないものも多いように思う。おそらく、誰かがやり始めたことを、次の世代が「あの先生のされていたことだから理があるのだろう」とか言いながら伝えられていき、何代か経つと、それをしなければ助からない、などということになってしまう。 そんなことをしながら、訳のわからない文化や伝統がたくさん出来上がり、それを守るためだけに時間も労力も費やさなければならないくなる。なぜそれをするのか分からないまま代々続けていることはないだろうか? ありがたいことに、天理教には原典がある。訳のわからない文化や伝統が増えてきたときに、果たしてそれを守るべきなのかどうかを判断することは難しくはない。 誰が始めたのか分からない文化や伝統だから、すぐにやめてしまったほうが良いと言いたいわけではない。教えに基づかない風習であっても、それを守ることに意味がある場合もある。が、今はできることが限られているのだから、何を優先すべきかを考えていかなければならない。 今はやめるチャンスだ。何を守るために何をやめるべきだろうか。今しかやめられないことは何なのだろうか。