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布教によって陽気ぐらし

誠真実、誠の心、こういった言葉がよく用いられるが、その意味は「人を助ける心」だ。「誠」も「真実」も日本語と同じ意味で「本当」、「嘘偽りのないこと」であって、特別な意味があるわけではない。 元の理には、「この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」とある。人間は陽気ぐらしをするために創られたのだから、本当の心というのは陽気ぐらしができる心であり、それが人を助ける心という意味に通じる。 埃を払い、因縁を切ることができれば、人間が創られたばかりのときのキレイな心になれるのだから、本来の目的である陽気ぐらしは誰にでもできるのだ。そのために何をすれば良いのかというと、それは人によって違うだろう。布教が最も手っ取り早い方法だと、私はそう思うが、他の方法を否定するわけではない。

自分で布教をするのではない

「布教をする」という感覚は捨てなければならない。自分の力で布教をしているのではなく、神様が布教をさせてくださっているのだから、何があってもありがたいと思いながら歩かせていただくべきだろう。 布教師になると心を定めたときに神様は、私の魂の因縁、家の因縁、教会の因縁とを見極めて、最も良い道を通らせてくださっているのだから、今、与えられていることをしっかりと行っていれば良い。それにもかかわらず、「こんなことをしていて良いのだろうか」と考えるのは、神様に対して失礼だ。 考えてみれば、世の中には天理教を信仰していると言いながら、苦しむことでしか因縁を果たすことの出来ない人もいる。因縁を果たすには、因縁通りに苦しんでその中でたんのうするか、あるいはおたすけをするかの二つしか無い。「人助けたら我が身助かる」と明確にお教えくださっているのであって、それをせずに因縁通りに苦しむのは、天理教の最も良い所を捨てているようなものだ。 そう考えると、非常にありがたいと思えるはずなのだが、人間思案は中々捨てることができない。なんとも情けない。

天より神がしっかりと踏ん張りてやる程に

神様のお言葉に思い軽いはないのだから、すべて大事だ。それを断ったうえで、私が大事だと思うおさしづをここにコピペしておこうと思う。布教をしていれば心が折れそうになることもあるし、恐ろしく感じることもある。そんなときにありがたく思える。 明治二十年四月三日 檪の本にて大国屋へ清水梅谷両人おたすけの願 さあ/\尋ねる事情/\、身上に迫る処、尋ねる。尋ねるからは一つ諭しよう。よう聞き分け/\。この道は、常々に真実の神様や、教祖や、と言うて、常々の心神のさしづを堅くに守る事ならば、一里行けば一里、二里行けば二里、又三里行けば三里、又十里行けば十里、辺所へ出て、不意に一人で難儀はさゝぬぞえ。後とも知れず先とも知れず、天より神がしっかりと踏ん張りてやる程に。二人三人寄れば皆皆話し、今までは、わしはこんな心で居た、俺はこんな心使うて来た、と皆んなめん/\の心通り、言わしてみせる。神の自由自在、よう聞き分け/\。案じる事要らん/\。こういうさしづあったと、皆々の処へ伝えてくれ。一人や二人のさしづやないで。皆々伝えてくれ/\。 「天より神がしっかりと踏ん張りてやる程に」と仰せくださる。こんな頼もしいことはない。

俄に咲く花は

布教がうまくいっているかどうかは、あまり気にする必要はない。そもそも、そんなすぐに芽が出るはずがない。先人の布教師がどれだけ長い間苦労をされたのかを考えるべきだろう。明治二十四年十一月一日のおさしづに、 多く事情に世上の理、めん/\一人幾重の事情に、長くは先の楽しみ、短いは楽しみ無し。これ俄かに咲く花は、切って来て床へ挿してあるも同じ事。これはのじの無いものである。さあ/\これ根のある花は遅なる。なれども年々咲く。又枝に枝が栄える。根も踏ん張る。こゝの道理をよう思やんしてみよ。 こうある。こんなおさしづを読ませていただくと、むしろ何も成果がないほうが良いのではないかとも思う。もちろん、心が勇んでいるという前提だが。