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倉庫は劣悪と聞いたが

単発のバイトを始めた。主に倉庫だ。今はスーパーの配送センターによく行く。前日に応募するだけで働かせてもらえる。明日は暇だなぁと思ったら応募すればよい。何なら、当日の仕事も掲載されているのだから、便利な時代になったなぁと思う。 配送センターと言うとカッコよく聞こえるかもしれないが、いわゆる「倉庫」だ。倉庫はいつでも仕事がある。同じ職場で働いている人が、「倉庫は世の中の底辺」などと自虐的に言っていたことがある。劣悪な環境だとかブラック企業ばかりだとか言われることがあるが、実際に働いてみるとそうでもないように思う。 確かに、職場によっては変な人がたくさんいるところもある。怒鳴られることもある。二度と行くものかっ!と思うこともあるが、そうではない所のほうが多い。何故かとても優しく面倒を見てくれる人や、ミスしたらフォローしてくれる人も結構いる。倉庫だから特別劣悪だとは思わない。強いて言えば、重いものを持たなければならなかったり、あるいは空調の効いてない中で働かなければならなかったりするのが多少キツイと感じることはあるくらいで、倉庫だから格別厳しいとは思わない。 働いている会社の悪口を言いふらしてみたり、ブログに書いてみたりと、そんなことを目にしたので、書いてみた。 どこにいても自分の目に映る世界は自分の因縁の姿なのだから、他人に言うべきではない。

逸話篇四八 待ってた、待ってた

 待ってた、待ってた。五代前に命のすたるところを救けてくれた叔母やで。 上田ナライトさんが初めておやさまにお会いしたとき、おやさまが仰った言葉だ。確か山中忠七先生も同じようなことを仰ったことがある。親戚は親戚に生まれ変わるものだと思っていたが、そうでもないようだ。五回も生まれ変わってから近くに生まれてくるのだから。 自分の周りにいる人は、ずっと昔にお世話になった人なのかもしれない。とにかく身近な人を大切にして生きていく事が大事だ。などと私が言うほどのことでもないが。

逸話篇二十一 結構や、結構や

 悪いことが起こるのは、決して悪いことではない。と言うと、意味がわからない人もいるだろうが、恐らく信仰者なら理解できるはずだ。 逸話篇の二十一「結構や、結構や」では、山中忠七先生が洪水の被害に遭われる。おやさまに伺うと、 さあ/\、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで。 と、おやさまは仰った。先生の前生がどのようなものなのかは分からないが、これによって前生の因縁を納消できたのだから、あとは余計な埃を積まずにたんのうしておけば良いという意味で、おやさまは仰ったのだろう。 神様の世界に運や偶然というものはなく、全てには理由がある。悪いことが起こるのは、もちろんその因縁があるわけだが、たんのうさえしていれば、神様は因縁を少しずつ切ってくださる。 悪いことが起こるたびに、魂は少しずつ澄んでいき、陽気暮らしへと近づいていくのだから、ありがたいことだ。

賽銭泥棒のニュース

 賽銭泥棒のニュースが流れていた。賽銭を盗まなければならないのだから、ずいぶん困っていたのだろう。お金があれば何とかなると思ったのかもしれないし、ただその時お金が欲しかっただけなのかもしれない。本人でないと分からないことだ。 本来ならきちんと働きながら、お金に困らないだけの徳を積むべきだろつ。しかし、何が埃で何が埃ではないのかを知らない人にとって、仕方のないことかもしれない。賽銭泥棒をした人にとっては、それが最善の解決策であったのだろう。多くの人にとって「悪いこと」でも、悪いと思わない人もたくさんいる。人間の考え方はみんな違うのだから仕方がない。 見るも因縁。 これが正しいとか、ここまでは許されるだろうとか思っていることであっても、神様の目から見れば違うのかもしれない。気をつけねば。

逸話篇一八四 悟り方

逸話篇の一八四「悟り方」という話がある。最初読んだときに違和感を覚えたのだが、ある先生から教えていただいたことで解決したので、ここに書いておこうと思う。 明治十九年二月六日(陰暦正月三日)、お屋敷へ帰らせて頂いていた梅谷四郎兵衞のもとへ、家から、かねて身上中の二女みちゑがなくなったという報せが届いた。教祖にお目通りした時、話のついでに、その事を申し上げると、教祖は、 「それは結構やなあ。」 と、仰せられた。 梅谷は、教祖が、何かお聞き違いなされたのだろうと思ったので、更に、もう一度、「子供をなくしましたので。」と、申し上げると、教祖は、ただ一言、 「大きい方でのうて、よかったなあ。」と、仰せられた。 梅谷四郎兵衛先生が初めておぢば帰りをされた目的は、兄の病気を救けていただくためであったが、教えの理を聞くにつれて因縁を悟り、因縁を切っていただくために信仰をはじめられたと聞かせていただく。 先生に子供はいるが、男児は三男の梅次郎だけである。長男と次男は出直した。これを、家が途絶える因縁だと悟られたのだろう。先生は入信前、一度は養子に入られたことがある。どのような事情があったのか詳しくは分からないが、その家を出ることとなり、結果としてその家は途絶えてしまうことになる。これは因縁のなすこと、前生から家を倒してきた因縁があるため、男児が育たず、家が倒れることになると悟っておられたのであろう。 「大きい方」とは男児の梅次郎のことである。 子供が出直すというのは、誰にとっても悲しいことであって、もちろんおやさまもご存じであろう。そんな中でも何か喜びを見つけて通るということをお教えくださったのではないだろうか。 当時は「家」が重要視された時代であろうから良いのかもしれないが。

一一四 よう苦労して来た かしものかりものの理の本質は因縁

 逸話篇の114「よう苦労して来た」に泉田藤吉先生の話が出ている。初めて読んだときに違和感を覚えた。が、最近、謎が解けた。ある先生の一言だ。「かしものかりものの理の本質は魂の連続性だよ」、この一言だ。つまり、本質は因縁である。このことを踏まえて逸話篇を読むと分かりやすい。 泉田藤吉先生は十三峠で追い剥ぎに遭遇する。その時、かしものかりものの理が頭に浮かんだ。追い剥ぎが「前生に貸したものを早く返してくれ!」と言っているように思ったのだろう。 それで、着物と財布を差し出した。「前生からお借りしていたものをお返しします。ありがとうございました。」、という気持ちだったに違いない。 しかしそれは泉田先生の勘違いであって、追い剥ぎは何も盗らずにその場を去った。先生は着物を着て再びおぢばへと歩き始めた。 こういう話であろう。かしものかりものの理が心におさまるというのはこういうことなのだろう。

一番大切なこと

元の理の冒頭に、  この世の元初りは、どろ海であつた。  月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。 とある。文書を作成するときやお話の原稿を書くときには、一番大切なことを最初に書くのが普通だ。まあ、人間の集中力なんてものは最初の数分くらいしかもたないのだから、一番大切なことを最初に言っておかないと伝わらない。集中力が切れてるときに、素晴らしい話をいくら聞いても、頭に入ってこないだろう。と、そういう技術的なことを開設してもここでは意味はないのでやめることにするが、なにしろ一番大事なことはこの部分だと私は思う。 人間が陽気ぐらしをするのを見てともに楽しもうと思いた、というのが人間創造の目的である。「ともに」とあるは、人間が楽しむのを見て神様も楽しむという意味だ。 教典と教祖伝の冒頭には、 我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降つた。みきを神のやしろに貰い受けたい とある。「世界一れつをたすけるため」と、立教の目的を述べられている。 神様は陽気ぐらしをさせるために人間をお造りになったのだから、すべての人間は「普通」の状態で陽気ぐらしができるのである。それにもかかわらず苦しんだり悩んだりしている人間をたすけるために天理教が始まったのである。 誤解を恐れずに分かりやすく言えば、人間は幸せになるために造られたのであって、その方法を伝えるために天理教がある。これが一番大事なことだと私は思う。それを知らなければつまらない信仰になってしまうだろう。 例えば、「私は因縁が悪いから信仰しなければならないんです。」などという言葉を聞くことがある。因縁に追われて信仰しているようなものだ。まあ、その考え方はそれぞれの自由だから否定しない。しかし、因縁が悪いから永遠に不幸に暮らさなければならないと思う必要はない。因縁は切ることができる。神様は因縁を切る方法をいくつも教えてくださっている。それを教えるのも立教の目的の一つだ。 因縁を切ればどうなるのだろうか?それを知らずに努力し続けるのは、目的地が分からずに走り続けているようで心許ない。因縁を切れば、魂は「普通」の状態に戻るわけで、つまり陽気ぐらしができるのである。因縁を切ることが目的...

前生因縁のさんげはたんのうだけではない

「たんのうは前生いんねんのさんげ」という言葉はあまりにも有名なのだが、たんのうして通るだけなら、何も天理教を信仰する必要はない。どんなことが起こっても、それを前向きに捉えて受け止めるというのなら、世間で言うプラス思考と何も代わりはない。因縁ということを理解することで、不都合なことが起こった時に、「これがさんげになる」と考えれば、ただそれを受け入れやすくなるだけのことだろう。 「たんのうは前生いんねんのさんげ」だが、前生いんねんのさんげはたんのうだけではない。「人助けたら我が身助かる」というのだから、たんのうを中心において守りの信仰をするよりも、おたすけを中心において攻めの信仰をするほうが、因縁納消の道を通りやすいのではないかと。

見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと

「見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと。」というのは、一体誰が言ったのか分からないのだが、天理教の人はよく言う。明治二十年十二月十一日のおさしづに、 前々のさんげせと言うても分かるまい。神は世界四方正面として鏡に皆映してある。それ難儀な/\者も同んなし兄弟。俺もあんな身ならなあと、やれ/\たんのう、たんのうは誠より出やせん。 とある。人間は生まれ変わるときに前生の記憶を失うのだから、前生にどんなことをしてきたのかはわからない。しかし、神様はそれが分かるように計らってくださる。お道を通っていれば因縁を抑えてくださるのだか、因縁が出てこないがために因縁を知ることはできない。それはそれでありがたいのだが、因縁を自覚しなければありがたさもわかりにくいだろう。そこで神様は、それをいつも見せてくださるのである。 もしもお道を通っていなかったらどんなことになっていたのかということを、においがけとおたすけを通して見せてくださるのである。においがけに出れば、同じような身上の人にばかりに出会う。例えば、私の場合は、頭の身上の人ばかりに出会うのだが、これは神様が私に教えてくださっているのだ。もしも私がお道を信仰していなかったのなら、頭の身上でおたすけをしてもらわなければならなくなると。 「見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと。」と言われると、少し恐ろしく感じる。「前生でお前はこんなふうに通ってきて、そして本当ならこんなふうに苦しまなければならないのだぞ。」と神様から叱られているように思えてしまうのは私だけではないはずだ。 しかし、考え方を変えれば、信仰をしていることによって、自分の通らなければならない因縁を、見る因縁や聞く因縁、おたすけする因縁に変えてくださるということでもある。どんなにひどい因縁があったとしても、お道を信仰している限り、その因縁は見て聞いておたすけをさせていただくだけで良く、自分が苦しまなくて良い。 なんとありがたいことかと。

たんのうは前生因縁のさんげだが…

「たんのうは前生因縁のさんげ」と教えられる。これは事あるごとに教えられていて、例えば明治二十年のおさしづに、「そこで、たんのうと心を定めるは、前生のさんげとなる。」や、「いんねん一つのさんげはたんのう一つの理を治め。」などとある。今ある苦しい状況を喜ぶことによって、前生に積んできた因縁を許してくださるのである。だから何があっても喜ぶことが大事だ。 何があっても、それを喜んで受け入れることができれば良いわけだが、なかなかそれができないのが人間である。たんのうというのは喜びの心だという人もいるが、自然と喜べるようなものではないだろう。苦しみ悩んで因縁を理解し、感情的には受け入れられなくても我慢し、無理やり喜ぶくらいでないと前生因縁のさんげにはならないだろうと私は思う。 例えば「成らん中たんのう、治められん処から治めるは、真実誠と言う。前生いんねんのさんげとも言う。」や、「ならん中たんのうするは、前生さんげ/\と言う。」、あるいは「出けんたんのうするは、前生いんねんのさんげ。」というように、どうにもならないことを抱えて、それでもたんのうすることで前生因縁のさんげとなるわけである。おさしづの文章を読めば簡単なように思えるかもしれないが、実際にはかなり苦しんだり悩んだりしているところでたんのうをしなければならないのだろう。 本当に苦しんだり悩んだりしているときには、たんのうできそうにもないのだが、それが分かるようにと神様は計らってくださる。それが「世上いんねん見てさんげえ。」や、「世上見てすれば治まらんやない。」というように、世上を見ることによってたんのうができ、それによってさんげができると仰る。もしもお道を通っていなかったらどうなっていたのかというのは、実際にお道を通っている自分にはわからないものであるが、それは「世上へ映してある」と仰る。明治二十年十二月十一日のおさしづには、 何で一つよう成らん。よう成らんではない。前々のさんげせと言うても分かるまい。神は世界四方正面として鏡に皆映してある。それ難儀な/\者も同んなし兄弟。俺もあんな身ならなあと、やれ/\たんのう、たんのうは誠より出やせん。 とある。お道を通っているからあんなひどいことにはなっていないのだということが分かるように、神様は世上に映してくださるのである。布教に歩かせていただいていれば、同じよう...

おたすけじゃないよ。おたすかりだよ。

おたすけをしないと家の中に助けてもらわなきゃならない困ったことが起きるよ。おたすけじゃないよ。おたすかりだよ。 愛町分教会の関根豊松先生が仰ったそうだ。なんとなく脅迫のようなイメージを持つ人もいるようだが、そうではない。陽気ぐらし世界建設を急き込まれる親神様の温かい親心であるということを理解しなければならない。 親神様が人間をお創りくだされた目的は、今更言うまでもなく陽気ぐらしを見て共に楽しむことである。しかし、人間はその目的を知らず、悪い因縁を積んできた。それが元で、とても陽気とは言えないような生活を送っているものもいるのである。親神様はこのような人間を何とかして助けたいと、常にそうお考えになっているのである。 人間は陽気ぐらしをするために創られたのだから、悪い因縁さえ切ってしまえば自ずと陽気ぐらしができるのである。因縁を切る方法は二つあって、一つは因縁通りに苦しむこと、そしてもう一つはおたすけをすることであるとお教えいただく。 親神様は因縁を切ってやりたいと思し召されるわけだが、かわいい我が子である人間を苦しめたいとは思わない。何とかして苦しまずに因縁を切ってやりたいという思いから、おたすけをさせてやりたいと、こう思し召されるのである。 人間が自ら進んでおたすけをするのが理想的だ。しかし、それをしない人間もいるだろう。自分ではおたすけに取りかかれない人に対しても、親神様はおたすけをさせてやりたいと思し召される。そして、どうやってもおたすけせざるをえない状況を用意してくださるのである。その一つの方法が、家族に身上や事情を見せることである。家族なら生活をともにしているのだから、おたすけしないわけにはいかないだろう。 なんとありがたい親心だろうか。 ただ、人間としては、家族に困った人が現れるのは、あまり好ましいことではないと考えるのが普通だ。それなら、外に向かっておたすけをするべきだろう。

因縁

因縁というと、悪いものを思い浮かべてしまいがちだが、そうではない。そもそも因縁という言葉は仏教で用いられていた言葉で、天理教はその言葉を流用しているのであって、意味は異なる。 人間の身体は親神様のものであり、人間は身体をお借りしている。この世に生まれてくるという現象は、魂が親神様から新しい身体を借りることであり、死ぬという現象は神様に身体をお返しすることを意味する。死んだ後は、また新しい身体を借りてこの世に生まれてくる。魂は生き通しで、生まれ変わりを繰り返しているから、天理教では「死ぬ」と言わず、その代わりに「出直す」と言う。古い着物を脱ぎ捨てて新しい着物に着替えるようなものだとも教えていただく。 どれだけ多くの財産を築いたとしても、それを次の人生に持っていくことはできない。また、技術や知識なども持っていくことは出来ない。魂は財産も技術も知識も持つことはできないのである。しかし、何も持っていくことが出来ないのかというと、そうではない。人生の中で良いことも悪いこともするわけだが、それは魂に刻まれているのである。これが因縁である。 他の人と同じように暮らしていても、何をやってもうまくいく人はどこにでもいるものだが、おそらくこの人の魂は、ずっと人様のために良いことをしてきたのだろう。 このように言うと、人生は不公平なものに思えるかもしれないが、そうではない。親神様が人間をお創りになった時には、人間の魂には良い因縁も悪い因縁もなかった。それが、生まれ変わって長い年月が経つ間に、良い心遣いも悪い心遣いもし、それが魂に因縁として刻まれたのである。 このように考えていくと、「私の因縁はさぞかし悪いのだから、もう何をしてもダメだ」と思う人もいるだろう。確かにそう考えられなくもないのだが、そもそも因縁というものは、それほど恐ろしいものではない。もしも因縁通りにしか生きることが出来ないのなら、ずっと悪いことばかりしてきた魂を持つ人は苦しみ続けなければならないだろう。しかし、神様は悪い因縁を切る方法も教えてくださっているのである。それが、「たんのう」と「おたすけ」である。 因縁を切る方法を知らない人にとって、因縁は非常に恐ろしいものだろう。しかし、天理教の教えを知っていれば因縁を切る方法を知れるのだから、これほどありがたいことはない。もともと、人間は陽気ぐらしをす...

誠真実の心で因縁を果たす

前生の因縁を果たすには二つの方法がある。一つは自らが通って果たすことであり、もう一つはおたすけをすることである。 自らが通るというのは分かりやすい。例えば、前生で他の人を苦しめてきたのなら、その分だけ自分が苦しめば、それで果たすことができる。非常に分かりやすい。が、これは何も天理教が教えなければならないことでもないだろう。 天理教が教えるとすれば、そこで埃を積まないようにすることではないかと。前生のことを覚えている人はいないのだから、今生に悪いことが起こってくると、人間は納得ができない。そこで、その原因は自分ではないのだと、そう思いたがる。 例えば誰か他の人が原因で苦しんでいるということもあるだろう。表面的には確かにそうであっても、根本的な原因は因縁である。自分を苦しめた人を何とか排除すれば良いと思うかもしれないが、そうすると別の人がやはり自分を苦しめることになる。原因は自分の因縁にあるのだから、それは仕方がない。 何をしても自分が苦しまなければならないようになるのは、それも因縁を果たさせてやりたいという親神様の親心なのだが、人間には中々理解できない。教えを知っていたとしても、本当に苦しんでいる時には冷静に考えることも出来ないだろう。理解できなくても果たせるのだから、それはそれで良い。 ただ、苦しんでいる時には埃を積みやすい。「私が苦しんでいるのはアイツのせいだ」などと恨みの埃を積んでしまったり、癇癪を起こして腹立ちの埃を積んでしまったりすると、苦しんだことによって因縁を果たせたとしても、新たな埃で新たな因縁をつけてしまう。だから、たんのうしなければならないのだ。 神様は「人助けたら我が身助かる」と明確におっしゃっているのだから、自分が苦しみたくなければ人を助ければ良い。願えば神様は人を助けさせてくださる。おたすけで因縁を果たすというのが、もう一つの方法だ。 どちらかが一方的に良いということはなくて、おそらく両方必要なのだろうが、どちらが効率的なのかといえば、おたすけである。 おさしづに、「真実誠の心、一粒万倍の善き理を渡す。悪しきは神は利を付けはせんで。」とある。悪しき心に対しては「利を付けはせん」と仰せ下さるのだから、苦しめた分だけ苦めば良い。というより、苦しめた分だけは苦しまなければならない。 ...

布教によって陽気ぐらし

誠真実、誠の心、こういった言葉がよく用いられるが、その意味は「人を助ける心」だ。「誠」も「真実」も日本語と同じ意味で「本当」、「嘘偽りのないこと」であって、特別な意味があるわけではない。 元の理には、「この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」とある。人間は陽気ぐらしをするために創られたのだから、本当の心というのは陽気ぐらしができる心であり、それが人を助ける心という意味に通じる。 埃を払い、因縁を切ることができれば、人間が創られたばかりのときのキレイな心になれるのだから、本来の目的である陽気ぐらしは誰にでもできるのだ。そのために何をすれば良いのかというと、それは人によって違うだろう。布教が最も手っ取り早い方法だと、私はそう思うが、他の方法を否定するわけではない。

自分で布教をするのではない

「布教をする」という感覚は捨てなければならない。自分の力で布教をしているのではなく、神様が布教をさせてくださっているのだから、何があってもありがたいと思いながら歩かせていただくべきだろう。 布教師になると心を定めたときに神様は、私の魂の因縁、家の因縁、教会の因縁とを見極めて、最も良い道を通らせてくださっているのだから、今、与えられていることをしっかりと行っていれば良い。それにもかかわらず、「こんなことをしていて良いのだろうか」と考えるのは、神様に対して失礼だ。 考えてみれば、世の中には天理教を信仰していると言いながら、苦しむことでしか因縁を果たすことの出来ない人もいる。因縁を果たすには、因縁通りに苦しんでその中でたんのうするか、あるいはおたすけをするかの二つしか無い。「人助けたら我が身助かる」と明確にお教えくださっているのであって、それをせずに因縁通りに苦しむのは、天理教の最も良い所を捨てているようなものだ。 そう考えると、非常にありがたいと思えるはずなのだが、人間思案は中々捨てることができない。なんとも情けない。