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世界は鏡

「世界は鏡」という言葉は、おさしづに何度か出てくる言葉だ。ある意味では、この教えの根幹をなす言葉かもしれないと、ふと思ったので書いてみようかと思う。 世界が定まった形で存在し、その世界を自分が見ているように思ってしまうが、そうではない。自分の姿がこの世界に映されているだけである。 そういう意味では、世界はそれほど広いものではなく、手の届く範囲、目で見える範囲にしか存在していないのだろう。半径1メートルくらいしかないのかもしれない。 世界が美しいと思えるのは、そう思う人の心が美しいから。 そんな人になりたいな。

働き損という心は

「末代」という言葉は、家の代という意味で捉えるべきではないだろう。当時は、個人よりも家を大事にする時代だから、そう誤解されて伝わったのも無理はない。しかし、この教えは家を守るための教えではない。個人の魂を救う教えである。 「代」とは、一つの人生を意味する。「末代」は、子や孫やその子孫に至るまで、という意味ではなく、何度生まれ変わっても、という意味で考えるべきであろう。今生で尽くしたことは今生だけのものではなく、来生にも続くものである。 働き損やという心は、更々持たぬよう。思わぬよう。尽した理は、生涯末代。 とある。ありがたいことだ。

余れば返す、足らねば貰う

余れば返す、足らねば貰う、という言葉をどこかで聞いて、どこで聞いたのかを忘れていた。忘れたという話を友人に言ったことがあったそうだが、言ったことを私は忘れていて、少し前に、それを覚えていてくれた友人がどこに書いてあるのかを教えてくれた。明治二十年一月十三日のおさしづだ。 理は見えねど、皆帳面に付けてあるも同じ事、月々年々、余れば返す、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。 とある。「足らねば貰う」か恐ろしいな。余るくらい尽くしておくほうが安心だ。

その場の楽しみをして

食えない苦労、寒くて眠れない苦労をしなければおさづけが効かないと、ある先生から教えていただいた。こうのうを得るために必要なことは難儀不自由、艱難苦労であると、おさしづのいろいろなところに書かれてある。 得られたこうのうはなくならないものなのかと思っていたが、そうでもないようだ。明治22年3月21日のおさしづに、 その場の楽しみをして、人間というものはどうもならん。楽しみてどうもならん。その場は通る。なれども何にもこうのう無くしては、どうもならん事に成りてはどうもならん。 とある。神様は「その場の楽しみ」を戒めておられる。 詰所の勤務をしながら他のことも色々とやっていると、忙しいし十分に寝ることもできないのだが、勤務そのものは楽しい。こんなことではダメだ。もっと苦労しなければ。

包んで居ては真実真の事とは言わん

言うべきか言わざるべきかと悩むことが多い。自分の癖性分でそう思っているのなら言うべきではないし、その環境でたんのうすることを神様が望んでおられるかも知れないと常々考えなければならない。すべては親心で、その親心を否定することなく、たんのうすることは大事だ。 だから、誰が何をしても、ただ黙っていれば良いのだと、そんなことを思っていたのだが、どうも違うようだ。明治三十一年十一月三日のおさしづに、 何ぼどういう事を言うたて、言うのが悪いなあ、言うてはいかんなあ。包んで居ては真実真の事とは言わん。我が身捨てゝも構わん。身を捨てゝもという精神持って働くなら、神が働く、という理を、精神一つの理に授けよう。 言うと嫌われるかも知れないと気を使って言わないのが普通の人間だが、「包んで居ては真実真の事とは言わん。」と神様は仰る。難しいことだが、神様がそう仰るのなら、そうするべきだろう。

天が見通し

名前出さいでも、天が見通しという理聞き分け。 どれだけ隅に居ても蔭に居ても、天が見通しという。 人がどう言うこう言うても、天が見通し。 めん/\それ/\心と心、天が見通しである。 わざわざ書く必要もないことだろうが、手元にある資料を開いたときに目に止まったので、せっかくなので書いておこうかと。

用いねば反対同様

内務省秘密訓令が発布されたときのおさしづを、ふと思い出した。確か、おぢばで習ったことがある。 反対する者も可愛我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。 「念ずる」がどういう意味なのか、あるいは「用いる」が具体的に何をすべきなのかというところに議論の余地はあるわけだが、ざっくり言えば、「頭で考えているだけ、あるいは口で言っているだけで何もしなければ、反対しているのと同じだ」という意味だ。 天理教の教えを勉強するのは楽しいし、まだまだ新しい発見もあって、つい時間を忘れて没頭してしまうのだが、そんなことをしていても「反対同様のもの」でしかないのだろう。

天然自然の道は優しい道ではない

おさしづに「天然自然」という言葉が出てくる。言葉の響きは優しいが、内容は非常に厳しい。例えば、 この道の掛かりは、先ず一代という、どうでもこうでも不自由難儀の道通らにゃならん。不自由の道通るは天然自然の道という。神の望む処である。 他にも、 心だけという、心に働き、心にどれだけ言い聞かした処が、皆んな心から苦しみ通る理は、天然自然の道という。どうでもこうでも、艱難不自由通りてくれるは、一代の道の台と言う。 とある。天然自然の道は難儀不自由であり、艱難不自由なのである。これを神様は望んでおられる。これが天然自然なのであれば、一代はとにかく苦労しなければならないということだろう。しかし、その後は天然自然で成ってくるのだから心配いらない。

春が来れば花が咲く

神様は未来のことまできちんと計画をしてくださっている。この道を通っていれば何も怖いことはなく、明るい未来が待っているだけなのだから、ただ歩かせてもらえば良い。しかし、人間は未来が見えないから、つい不安に思ってしまう。人間の親なる神様が教えて下さる方向へと歩いていれば良いのだが、つい不安になってしまうのが人間の悲しいところだ。 お道を通っていて何も良いことがないというのは、それは良いことが起こる旬ではないからだ。明治二十三年十二月十八日のおさしづには、 「春が来れば花が咲く」とある。何も良いことが起こらないのは、冬に花が咲かないのと同じだ。春まで待てば良い。

根のある花は遅なる

まじめに布教をしようと決めてから、もう一年くらい経つ。たった一年だ。初席者もできず、おたすけ先も一件か二件くらいなものである。これが仕事なら大変なことだ。会社で一年も働いていてなにの実績も出ないのなら、クビになるか、あるいはもう出世はできないだろう。しかし、それは世上のこと。神様は時間がかかるものだといつも仰る。明治二十四年十一月一日のおさしづに、 多く事情に世上の理、めん/\一人幾重の事情に、長くは先の楽しみ、短いは楽しみ無し。これ俄かに咲く花は、切って来て床へ挿してあるも同じ事。これはのじの無いものである。さあ/\これ根のある花は遅なる。なれども年々咲く。又枝に枝が栄える。根も踏ん張る。こゝの道理をよう思やんしてみよ。 すぐに結果が現れたのなら、それは「切って来て床へ指してある」のと同じだと仰る。土に根が生えている生えているわけではないのだから、美しいのはその時だけですぐに枯れてしまう。根のある花を咲かせるには、育つまで待たなければならないのだから時間がかかる。 神様がこう仰るのだから、あせらずにコツコツ布教に歩かせてもらおう。

天理教の教えは簡単だが

天理教の教えは難しいものではない。基本的な教理といえば、元の理、十全の御守護、八つの埃くらいなものであり、その実践的な行いはすべておやさまのひながたとしてお通りくだされてある。覚えるべきことは極めて少ない。毎日拝読していれば頭に入ってくるだろう。無理に覚える程でもない。 天理教の教えは難しくはないのだが、それを実践するのが難しい。明治二十年十一月八日のおさしづには、 さあ/\身の内の処よう聞き分けねばならん。さあ/\神の方には不足の身体は貸してない。不足というは、めん/\の心より。成程結構という事は分かるである。一寸道歩く。あゝ綺麗な花やなあと言うて通ったまで。さあ誠一つ願う時の心定めねばならん。内々めん/\身に知らす。 とある。なるほど、結構だということまでは誰でも分かるほど、天理教の教えはありがたいが、そう思っているだけでは「あゝ綺麗な花やなあと言うて通ったまで」と神様は仰る。綺麗な花を眺めているだけのことであって、綺麗な花を咲かせたわけではない。 自らが綺麗な花を咲かせるには、なるほど、結構と思うだけではなく、それを日々に実践していかなければならない。おさしづにもおふでさきにも、このような意味のことがよく書かれている。著名な布教師の先生方は、本気で実践されたのだろうかと。

病の元が心なら精神病は助からない?

みかぐらうたの十下り目に「やまひのもとハこゝろから」とある。「病の元は心から」である。では、心を病んでしまったらどうなるのだろうか。 昔、ある先生から「病の元は心からというのだから、精神病になると天理教ではなかなか御守護いただけない。」と言われたことがある。世界一列を助けたいと仰る神様が、精神病だけは助けないということがあるはずがない。その先生は精神病のおたすけが苦手なだけだろう。精神病であれ何であれ、医者の手余りは神様が助けてくださるのである。現に私の周りには助かった人がたくさんいるし、現在もおたすけの最中だ。 心の病になるとどうしようもないと考えるのは、言葉遊びとしては妥当なのかもしれないが、おやさまはおたすけをされている。「気の違い」あるいは「気の間違い」と表現されているものは、おそらく精神病だろう。 ここで注意しておかなければならないのは、「病の元は心から」の「心」という言葉と、「心の病」の「心」という言葉は意味が違うということだ。現代の我々が「心の病」と言った場合の「心」は「精神」という意味だが、おやさまの仰る「心」はそうではない。同じ「心」という言葉であっても、時代が違えば意味が異なるのは当然だ。中学か高校で古典を習っていれば、それくらいは分かるだろう。 我々が日常的に使う「心」という言葉と、神様が仰る「心」という言葉は意味が違う。「病の元は精神」からではない。 おさしづには「精神」という言葉は使われているが、その場合には「心」と同じような意味で用いられているように思う。おさしづの「精神」という言葉の意味と、我々が使う「精神」という言葉の意味も全く同じではないという点にも注意しなければならない。 何が言いたいのかというと、世界一列を助けたいと仰る神様は精神病の人も助けてくれるという、至極当たり前のことを言いたいだけだ。

見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと

「見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと。」というのは、一体誰が言ったのか分からないのだが、天理教の人はよく言う。明治二十年十二月十一日のおさしづに、 前々のさんげせと言うても分かるまい。神は世界四方正面として鏡に皆映してある。それ難儀な/\者も同んなし兄弟。俺もあんな身ならなあと、やれ/\たんのう、たんのうは誠より出やせん。 とある。人間は生まれ変わるときに前生の記憶を失うのだから、前生にどんなことをしてきたのかはわからない。しかし、神様はそれが分かるように計らってくださる。お道を通っていれば因縁を抑えてくださるのだか、因縁が出てこないがために因縁を知ることはできない。それはそれでありがたいのだが、因縁を自覚しなければありがたさもわかりにくいだろう。そこで神様は、それをいつも見せてくださるのである。 もしもお道を通っていなかったらどんなことになっていたのかということを、においがけとおたすけを通して見せてくださるのである。においがけに出れば、同じような身上の人にばかりに出会う。例えば、私の場合は、頭の身上の人ばかりに出会うのだが、これは神様が私に教えてくださっているのだ。もしも私がお道を信仰していなかったのなら、頭の身上でおたすけをしてもらわなければならなくなると。 「見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと。」と言われると、少し恐ろしく感じる。「前生でお前はこんなふうに通ってきて、そして本当ならこんなふうに苦しまなければならないのだぞ。」と神様から叱られているように思えてしまうのは私だけではないはずだ。 しかし、考え方を変えれば、信仰をしていることによって、自分の通らなければならない因縁を、見る因縁や聞く因縁、おたすけする因縁に変えてくださるということでもある。どんなにひどい因縁があったとしても、お道を信仰している限り、その因縁は見て聞いておたすけをさせていただくだけで良く、自分が苦しまなくて良い。 なんとありがたいことかと。

たんのうは前生因縁のさんげだが…

「たんのうは前生因縁のさんげ」と教えられる。これは事あるごとに教えられていて、例えば明治二十年のおさしづに、「そこで、たんのうと心を定めるは、前生のさんげとなる。」や、「いんねん一つのさんげはたんのう一つの理を治め。」などとある。今ある苦しい状況を喜ぶことによって、前生に積んできた因縁を許してくださるのである。だから何があっても喜ぶことが大事だ。 何があっても、それを喜んで受け入れることができれば良いわけだが、なかなかそれができないのが人間である。たんのうというのは喜びの心だという人もいるが、自然と喜べるようなものではないだろう。苦しみ悩んで因縁を理解し、感情的には受け入れられなくても我慢し、無理やり喜ぶくらいでないと前生因縁のさんげにはならないだろうと私は思う。 例えば「成らん中たんのう、治められん処から治めるは、真実誠と言う。前生いんねんのさんげとも言う。」や、「ならん中たんのうするは、前生さんげ/\と言う。」、あるいは「出けんたんのうするは、前生いんねんのさんげ。」というように、どうにもならないことを抱えて、それでもたんのうすることで前生因縁のさんげとなるわけである。おさしづの文章を読めば簡単なように思えるかもしれないが、実際にはかなり苦しんだり悩んだりしているところでたんのうをしなければならないのだろう。 本当に苦しんだり悩んだりしているときには、たんのうできそうにもないのだが、それが分かるようにと神様は計らってくださる。それが「世上いんねん見てさんげえ。」や、「世上見てすれば治まらんやない。」というように、世上を見ることによってたんのうができ、それによってさんげができると仰る。もしもお道を通っていなかったらどうなっていたのかというのは、実際にお道を通っている自分にはわからないものであるが、それは「世上へ映してある」と仰る。明治二十年十二月十一日のおさしづには、 何で一つよう成らん。よう成らんではない。前々のさんげせと言うても分かるまい。神は世界四方正面として鏡に皆映してある。それ難儀な/\者も同んなし兄弟。俺もあんな身ならなあと、やれ/\たんのう、たんのうは誠より出やせん。 とある。お道を通っているからあんなひどいことにはなっていないのだということが分かるように、神様は世上に映してくださるのである。布教に歩かせていただいていれば、同じよう...

誠の心一つ

明治二十年七月のおさしづ「大阪近藤政慶若狭行きの伺」 さあ/\尋ねる事情を、どうせともこうせとも、行けとも行くなとも、どうしてやろうこうしてやろうとも、この処、前から言うた事はないで。何事も皆銘々の心次第と言うてある事やで。何処に居ても月日の身の内や。何処に居るのも同じ事、誠の心一つや。誠が天の理や。天の理にさえ叶えば、何処に居ても道が付くで。実誠無けねば、何処い行たとて、何をしたとて道は狭ばむばかりやで。しいかり聞き分ねば分からん。しいかり聞き分けて諭すがよい。 誠が天の理であって、天の理にかなってさえいれば、どこにいても道がつく。実誠がなければ、どこに行っても、何をしても道は狭くなる。ありがたく、厳しいお言葉である。布教にはコツや技術が必要だと思ってしまうのが人間心だが、最も大事なのは「誠の心」である。毎日の布教活動の中では忘れがちだが、決して忘れてはならない。

道皆ちゃんと決まりてある

明治二十年八月二十三日のおさしづに、 立毛の育つも、この世始めも同じ事、無い人間を拵えて、初めより、ものが言えたやない。一年経てば一つ分かる。又一つ分かれば、又一つ分かるように成って、もの言うように成りたも同じ事。順序事情の道を伝うて、何事も一つ/\分かる。道を伝うて、何事も一つ/\分かる。道皆ちゃんと決まりてあるのや程に。 何事もすぐにできるようになるのではなくて、一つ一つ分かっていくものである。「立毛の育つ」とは、つまり農作物が育つということだ。作物が育つには時間がかかる。人間がどれだけ世話をしたからといって、今日種を撒いて明日収穫するということはできない。何をやっても時間はかかるものである。だから焦っても仕方がない。 逆に、道はきちんと決まっていると仰るのだから、順序どおりにきちんと歩んでいれば良いのである。

使い勝手の悪いのは一度切り

自分に布教をした人が誰なのかとたどっていくことで理の流れが分かり、因縁も少しは分かる。だいたい、同じ因縁の人ににおいがかかるものだ。たどっていくと、においをかけた家がもう信仰していないということも多い。ある大教会の初代ににおいをかけた人の家系が絶えてしまっているということもよくある。 においをかけたことによって助けたのだから、その助けた理で少しは助かるだろうが、本気で信仰したわけではないのだから、一代限りしか助からないのだろう。神様は、その人を、ただにおいをかける道具としてしかお使いにならなかった。なぜだろうかと。 明治二十年三月十五日の刻限御話に、「さあ掃除や。箒が要るで、沢山要るで。使うてみて使い良いは、いつまでも使うで。使うてみて、使い勝手の悪いのは、一度切りやで。」、とある。道をつけるために神様はその人をお使いになったのだろうが、使い勝手が悪かったのだろう。 「使い良い」道具になれるような努力をしなければならないかと。

辛い日は楽しみ

「辛い日は楽しみ」という言葉を師匠から教えていただいた。おさしづに載っているのだろうとは思っていたが、時間がなくてどこに載っているのか調べていなかった。いつか調べなきゃと思っていると、週報録の最初のページに掲載されていた。 さあ/\尋ねる処/\、内うちにはどうよこうよ日々経ち月々経ち、年限一つ修行、何も一つ/\辛い日を辛いと思わんよう。辛い日は楽しみ。辛い日辛いと思うから間違う。聞き分け。一日という。辛い中/\、辛い理より一つこうのうあろまい。しんどの中に実がある。楽の中に実が無い。この一つの理諭し置こう。

種は埋るもの

おさしづでは「種」を「埋る(おぼる)」という言葉がよく出てくる。「埋る」とは、埋めるという意味だ。植物の種を土の中に埋めておかなければ芽を出さない。土の中に埋めるというのは、つまり見えないところでしなければならないという意味だ。 人間は馬鹿な生き物だから、良いことをしても、それを誰かに認めてもらおうとする。誰かに認められて賞賛されたり、あるいはお礼を言われたりすると、良い気分になるものだ。苦労をして良いことをすることで、良い気分にしてもらい、それでプラスマイナスゼロになる。 人の前で良いことをするのは、ちょうどそれは石の上に種を蒔いているようなものだと教えていただく。石の上に種をまけば、他の人が見ることはできるだろうが、その種が芽を吹くことはないだろう。せっかく種を蒔くのなら、芽が出て欲しいと考えるのが普通で、それなら土の中に蒔かなければならない。 しかしながら、人間は人前で良いことをして、悪いことは陰でしてしまう。良い芽は出ず、悪い芽ばかりが出て、気がつけば大きく育ってしまうものだ。 陰の徳を積むというのは、お道の人間にとっては当たり前のことで今更言うまでもないことなのだが、それとともに陰で悪い種を蒔かぬよう、注意していきたい。

誠真実の心で因縁を果たす

前生の因縁を果たすには二つの方法がある。一つは自らが通って果たすことであり、もう一つはおたすけをすることである。 自らが通るというのは分かりやすい。例えば、前生で他の人を苦しめてきたのなら、その分だけ自分が苦しめば、それで果たすことができる。非常に分かりやすい。が、これは何も天理教が教えなければならないことでもないだろう。 天理教が教えるとすれば、そこで埃を積まないようにすることではないかと。前生のことを覚えている人はいないのだから、今生に悪いことが起こってくると、人間は納得ができない。そこで、その原因は自分ではないのだと、そう思いたがる。 例えば誰か他の人が原因で苦しんでいるということもあるだろう。表面的には確かにそうであっても、根本的な原因は因縁である。自分を苦しめた人を何とか排除すれば良いと思うかもしれないが、そうすると別の人がやはり自分を苦しめることになる。原因は自分の因縁にあるのだから、それは仕方がない。 何をしても自分が苦しまなければならないようになるのは、それも因縁を果たさせてやりたいという親神様の親心なのだが、人間には中々理解できない。教えを知っていたとしても、本当に苦しんでいる時には冷静に考えることも出来ないだろう。理解できなくても果たせるのだから、それはそれで良い。 ただ、苦しんでいる時には埃を積みやすい。「私が苦しんでいるのはアイツのせいだ」などと恨みの埃を積んでしまったり、癇癪を起こして腹立ちの埃を積んでしまったりすると、苦しんだことによって因縁を果たせたとしても、新たな埃で新たな因縁をつけてしまう。だから、たんのうしなければならないのだ。 神様は「人助けたら我が身助かる」と明確におっしゃっているのだから、自分が苦しみたくなければ人を助ければ良い。願えば神様は人を助けさせてくださる。おたすけで因縁を果たすというのが、もう一つの方法だ。 どちらかが一方的に良いということはなくて、おそらく両方必要なのだろうが、どちらが効率的なのかといえば、おたすけである。 おさしづに、「真実誠の心、一粒万倍の善き理を渡す。悪しきは神は利を付けはせんで。」とある。悪しき心に対しては「利を付けはせん」と仰せ下さるのだから、苦しめた分だけ苦めば良い。というより、苦しめた分だけは苦しまなければならない。 ...