使い勝手の悪いのは一度切り
自分に布教をした人が誰なのかとたどっていくことで理の流れが分かり、因縁も少しは分かる。だいたい、同じ因縁の人ににおいがかかるものだ。たどっていくと、においをかけた家がもう信仰していないということも多い。ある大教会の初代ににおいをかけた人の家系が絶えてしまっているということもよくある。
においをかけたことによって助けたのだから、その助けた理で少しは助かるだろうが、本気で信仰したわけではないのだから、一代限りしか助からないのだろう。神様は、その人を、ただにおいをかける道具としてしかお使いにならなかった。なぜだろうかと。
明治二十年三月十五日の刻限御話に、「さあ掃除や。箒が要るで、沢山要るで。使うてみて使い良いは、いつまでも使うで。使うてみて、使い勝手の悪いのは、一度切りやで。」、とある。道をつけるために神様はその人をお使いになったのだろうが、使い勝手が悪かったのだろう。
「使い良い」道具になれるような努力をしなければならないかと。
においをかけたことによって助けたのだから、その助けた理で少しは助かるだろうが、本気で信仰したわけではないのだから、一代限りしか助からないのだろう。神様は、その人を、ただにおいをかける道具としてしかお使いにならなかった。なぜだろうかと。
明治二十年三月十五日の刻限御話に、「さあ掃除や。箒が要るで、沢山要るで。使うてみて使い良いは、いつまでも使うで。使うてみて、使い勝手の悪いのは、一度切りやで。」、とある。道をつけるために神様はその人をお使いになったのだろうが、使い勝手が悪かったのだろう。
「使い良い」道具になれるような努力をしなければならないかと。