誠真実の心で因縁を果たす
前生の因縁を果たすには二つの方法がある。一つは自らが通って果たすことであり、もう一つはおたすけをすることである。
自らが通るというのは分かりやすい。例えば、前生で他の人を苦しめてきたのなら、その分だけ自分が苦しめば、それで果たすことができる。非常に分かりやすい。が、これは何も天理教が教えなければならないことでもないだろう。
天理教が教えるとすれば、そこで埃を積まないようにすることではないかと。前生のことを覚えている人はいないのだから、今生に悪いことが起こってくると、人間は納得ができない。そこで、その原因は自分ではないのだと、そう思いたがる。
例えば誰か他の人が原因で苦しんでいるということもあるだろう。表面的には確かにそうであっても、根本的な原因は因縁である。自分を苦しめた人を何とか排除すれば良いと思うかもしれないが、そうすると別の人がやはり自分を苦しめることになる。原因は自分の因縁にあるのだから、それは仕方がない。
何をしても自分が苦しまなければならないようになるのは、それも因縁を果たさせてやりたいという親神様の親心なのだが、人間には中々理解できない。教えを知っていたとしても、本当に苦しんでいる時には冷静に考えることも出来ないだろう。理解できなくても果たせるのだから、それはそれで良い。
ただ、苦しんでいる時には埃を積みやすい。「私が苦しんでいるのはアイツのせいだ」などと恨みの埃を積んでしまったり、癇癪を起こして腹立ちの埃を積んでしまったりすると、苦しんだことによって因縁を果たせたとしても、新たな埃で新たな因縁をつけてしまう。だから、たんのうしなければならないのだ。
神様は「人助けたら我が身助かる」と明確におっしゃっているのだから、自分が苦しみたくなければ人を助ければ良い。願えば神様は人を助けさせてくださる。おたすけで因縁を果たすというのが、もう一つの方法だ。
どちらかが一方的に良いということはなくて、おそらく両方必要なのだろうが、どちらが効率的なのかといえば、おたすけである。
おさしづに、「真実誠の心、一粒万倍の善き理を渡す。悪しきは神は利を付けはせんで。」とある。悪しき心に対しては「利を付けはせん」と仰せ下さるのだから、苦しめた分だけ苦めば良い。というより、苦しめた分だけは苦しまなければならない。
「誠真実の心」とは人を助ける心であって、人を助ける心は「一粒万倍」にして下さる。おたすけをすれば、それは一粒万倍に受け取ってくださるのだから、こちらのほうが遥かに良いに決まっているわけだ。
おたすけは、人を助けるためのものなのだが、自分が助かるための最も優れた方法である。