すべてを慈しみ、すべてを願う —— 宗教家が「オルカン」に行き着いた理由
私は今、運用資産のすべてを「eMAXIS Slim 全世界株式(オール・カントリー)」、いわゆるオルカンに委ねている。
かつては個別銘柄や特定のテーマ型投信を手にしていた時期もあったが、拭いきれない「違和感」が常に心の片隅にあった。その正体を見つめ直したとき、私は一つの確信に至った。
「宗教家こそ、オルカンであるべきではないか」
人間という生き物は、物事を完全に切り離して考えることはできない。投資と日常生活、あるいは信仰と経済活動を別物として割り切れるのなら、手法は何でもよいのかもしれない。しかし、現実はそうはいかない。
例えば、ある特定の企業の株を持つとする。
その瞬間に、私の心には「偏り」が生じる。もし出会った人がその企業の従業員であれば、私は純粋な「一対一の人間」としてではなく、「株主と労働者」という歪んだレンズを通して相手を見てしまうかもしれない。無意識にひいき目を向け、あるいは傲慢な期待を寄せてしまう。それは、人として対等に接するべき礼節を欠く行為ではないか。
もし、出会った人がライバル企業で懸命に働いていたらどうだろう。
その人の努力が実を結び、成果を上げることは、私の保有銘柄の価値を下げる要因になるかもしれない。その時、私は隣人の成功を心の底から祝福できるだろうか。他者の研鑽や繁栄を喜べないほど、宗教家として、いや、一人の人間として悲しいことはない。
業界単位で買えば済むという話でもない。特定の業種を選び取れば、選ばなかった他の業種が躍進したときに、何とも言えぬ「悔恨」が胸をかすめる。日本全体を買えばよいという考えもあるが、それでは隣国の繁栄を、自国の相対的な衰退として捉えてしまう危うさが残る。
だからこそ、私は世界のすべてを抱きしめることにした。
オルカンという選択は、地球上のあらゆる営みを肯定することに他ならない。
世界のどこかで誰かが汗を流し、創意工夫を凝らして価値を生み出したとき、私はその成功を共に喜ぶことができる。どの国が豊かになっても、どの民族が反映しても、私の祈りと投資の果実は同じ方向を向いている。
誰が頑張ってもいい。誰が幸せになってもいい。
世界中の人々の幸福を願い、一切の差別のない慈悲の心を保つために、私の精神を妨げないのは、今のところオルカンしかないのだ。
これが、私が辿り着いた「祈りとしての投資」の結論である。