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八つの埃を心に治める

八つの埃は、天理教の基本教理の一つで、天理教の人ならおそらく誰でも知っていることだろう。しかし、知っているだけでは何にもならない。確かにそうだと思っているだけでは何もならない。明治三十二年七月二十三日のおさしづに、 日々八つ/\のほこりを諭して居る。八つ諭すだけでは襖に描いた絵のようなもの。何遍見ても美し描いたるなあと言うだけではならん。めん/\聞き分けて、心に理を治めにゃならん。この教というは、どうでもこうでも心に理が治まらにゃならん。あちら話しこちら話し、白いものと言うて売っても中開けて黒かったらどうするぞ。 神様の仰る「心」という言葉は、記憶や思考、あるいは精神という意味ではなく、身の行いのことだ。頑張ってそれを覚えたとしても、それが行動に現れていなければ意味がない。

春が来れば花が咲く

神様は未来のことまできちんと計画をしてくださっている。この道を通っていれば何も怖いことはなく、明るい未来が待っているだけなのだから、ただ歩かせてもらえば良い。しかし、人間は未来が見えないから、つい不安に思ってしまう。人間の親なる神様が教えて下さる方向へと歩いていれば良いのだが、つい不安になってしまうのが人間の悲しいところだ。 お道を通っていて何も良いことがないというのは、それは良いことが起こる旬ではないからだ。明治二十三年十二月十八日のおさしづには、 「春が来れば花が咲く」とある。何も良いことが起こらないのは、冬に花が咲かないのと同じだ。春まで待てば良い。

根のある花は遅なる

まじめに布教をしようと決めてから、もう一年くらい経つ。たった一年だ。初席者もできず、おたすけ先も一件か二件くらいなものである。これが仕事なら大変なことだ。会社で一年も働いていてなにの実績も出ないのなら、クビになるか、あるいはもう出世はできないだろう。しかし、それは世上のこと。神様は時間がかかるものだといつも仰る。明治二十四年十一月一日のおさしづに、 多く事情に世上の理、めん/\一人幾重の事情に、長くは先の楽しみ、短いは楽しみ無し。これ俄かに咲く花は、切って来て床へ挿してあるも同じ事。これはのじの無いものである。さあ/\これ根のある花は遅なる。なれども年々咲く。又枝に枝が栄える。根も踏ん張る。こゝの道理をよう思やんしてみよ。 すぐに結果が現れたのなら、それは「切って来て床へ指してある」のと同じだと仰る。土に根が生えている生えているわけではないのだから、美しいのはその時だけですぐに枯れてしまう。根のある花を咲かせるには、育つまで待たなければならないのだから時間がかかる。 神様がこう仰るのだから、あせらずにコツコツ布教に歩かせてもらおう。

天理教の教えは簡単だが

天理教の教えは難しいものではない。基本的な教理といえば、元の理、十全の御守護、八つの埃くらいなものであり、その実践的な行いはすべておやさまのひながたとしてお通りくだされてある。覚えるべきことは極めて少ない。毎日拝読していれば頭に入ってくるだろう。無理に覚える程でもない。 天理教の教えは難しくはないのだが、それを実践するのが難しい。明治二十年十一月八日のおさしづには、 さあ/\身の内の処よう聞き分けねばならん。さあ/\神の方には不足の身体は貸してない。不足というは、めん/\の心より。成程結構という事は分かるである。一寸道歩く。あゝ綺麗な花やなあと言うて通ったまで。さあ誠一つ願う時の心定めねばならん。内々めん/\身に知らす。 とある。なるほど、結構だということまでは誰でも分かるほど、天理教の教えはありがたいが、そう思っているだけでは「あゝ綺麗な花やなあと言うて通ったまで」と神様は仰る。綺麗な花を眺めているだけのことであって、綺麗な花を咲かせたわけではない。 自らが綺麗な花を咲かせるには、なるほど、結構と思うだけではなく、それを日々に実践していかなければならない。おさしづにもおふでさきにも、このような意味のことがよく書かれている。著名な布教師の先生方は、本気で実践されたのだろうかと。

病の元が心なら精神病は助からない?

みかぐらうたの十下り目に「やまひのもとハこゝろから」とある。「病の元は心から」である。では、心を病んでしまったらどうなるのだろうか。 昔、ある先生から「病の元は心からというのだから、精神病になると天理教ではなかなか御守護いただけない。」と言われたことがある。世界一列を助けたいと仰る神様が、精神病だけは助けないということがあるはずがない。その先生は精神病のおたすけが苦手なだけだろう。精神病であれ何であれ、医者の手余りは神様が助けてくださるのである。現に私の周りには助かった人がたくさんいるし、現在もおたすけの最中だ。 心の病になるとどうしようもないと考えるのは、言葉遊びとしては妥当なのかもしれないが、おやさまはおたすけをされている。「気の違い」あるいは「気の間違い」と表現されているものは、おそらく精神病だろう。 ここで注意しておかなければならないのは、「病の元は心から」の「心」という言葉と、「心の病」の「心」という言葉は意味が違うということだ。現代の我々が「心の病」と言った場合の「心」は「精神」という意味だが、おやさまの仰る「心」はそうではない。同じ「心」という言葉であっても、時代が違えば意味が異なるのは当然だ。中学か高校で古典を習っていれば、それくらいは分かるだろう。 我々が日常的に使う「心」という言葉と、神様が仰る「心」という言葉は意味が違う。「病の元は精神」からではない。 おさしづには「精神」という言葉は使われているが、その場合には「心」と同じような意味で用いられているように思う。おさしづの「精神」という言葉の意味と、我々が使う「精神」という言葉の意味も全く同じではないという点にも注意しなければならない。 何が言いたいのかというと、世界一列を助けたいと仰る神様は精神病の人も助けてくれるという、至極当たり前のことを言いたいだけだ。

皮膚が乾燥は水の心遣いができていないから

少し前のこと、右手の指にあかぎれができた。大気が乾燥しているのが原因だというのは世上の人が考えることであって、お道を通る我々は、こんなことでも心を改めて埃を払おうとするべきだろう。では、どういった心遣いが肌の乾燥につながっているのだろうか。 乾燥するというのは、言うまでもなく水の御守護が足りないからであって、つまり、くにとこたちのみこと様の御守護を頂けていないことを意味する。肌が乾燥することで生命が脅かされるというほどではない。水の御守護はほとんどいただけているのだが、隅々までは行き届いていないと考えられる。 ということは、水の心遣いはほとんど出来ているのだが、もう少し足りないということだろう。水の心遣いというと、よく言われるものがいくつかある。 その一つは低い心だ。水は低いところへ流れる。水の御守護がいただけていないときには、心が高くなっている可能性がある。もう一つは周りに合わせることだ。水は方円の器に従うと古くから言われる通りで、水には形がないのだから、自分の考えを主張するのではなく、周りに合わせていくことが必要だ。 低い心になっているつもりでいても、ついつい高くなりがちだから気をつけなければならない。周りに合わせているつもりでも、やはりつい自分が正しいと思っていることをやってしまいがちだ。 例えば、教会生活の上で、会長さんのいうことを素直に聞いているだろうか。会長さんはこう言うけれども、私はこちらが正しいと思うからこうすると、そんな行いをしていないだろうか。朝夕のおつとめにしても会長さん、あるいは芯になる人に合わせているだろうか。こういったことを確認していかなければならない。 皮膚科を探すことを否定するわけでもないし、保湿クリームを買いに行くのを否定するわけでもないが、それらはあくまで修理肥でしかないのだから一時的な対処にしか過ぎない。「病の元は心から」である。

GoogleDrawingでパンフレット作り

団参のパンフレットを作らなければならなくなった。手元にはChromebookしかない。PhotoshopとIllustratorをインストールしてあるWindowsマシンがあればと思ったのだが、ないのだから仕方がない。どうしようかと思っていろいろ調べてみると、GoogleDrawingというアプリを見つけた。これが割と使える。 使えるというと誤解を招きそうだ。プロではない普通の人が必要とするくらいの機能があるというのが正しいかもしれない。プロなら機能が不足していると感じるかもしれないが、素人には十分だ。そこそこの文字を打つことができて画像を貼り付けられれば、それなりのものはできる。 Chromebookに画像加工のアプリがないものかと思って探してみたが、良い物があまり見つからなかった。ググってみて、オンラインのサービスで十分に使えることを知った。私が使ったのは「写真加工.com」というサービスだ。 http://www.photo-kako.com/ 中古のWindowsを買おうかどうかと迷ったが、買わずに済んだ。

見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと

「見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと。」というのは、一体誰が言ったのか分からないのだが、天理教の人はよく言う。明治二十年十二月十一日のおさしづに、 前々のさんげせと言うても分かるまい。神は世界四方正面として鏡に皆映してある。それ難儀な/\者も同んなし兄弟。俺もあんな身ならなあと、やれ/\たんのう、たんのうは誠より出やせん。 とある。人間は生まれ変わるときに前生の記憶を失うのだから、前生にどんなことをしてきたのかはわからない。しかし、神様はそれが分かるように計らってくださる。お道を通っていれば因縁を抑えてくださるのだか、因縁が出てこないがために因縁を知ることはできない。それはそれでありがたいのだが、因縁を自覚しなければありがたさもわかりにくいだろう。そこで神様は、それをいつも見せてくださるのである。 もしもお道を通っていなかったらどんなことになっていたのかということを、においがけとおたすけを通して見せてくださるのである。においがけに出れば、同じような身上の人にばかりに出会う。例えば、私の場合は、頭の身上の人ばかりに出会うのだが、これは神様が私に教えてくださっているのだ。もしも私がお道を信仰していなかったのなら、頭の身上でおたすけをしてもらわなければならなくなると。 「見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと。」と言われると、少し恐ろしく感じる。「前生でお前はこんなふうに通ってきて、そして本当ならこんなふうに苦しまなければならないのだぞ。」と神様から叱られているように思えてしまうのは私だけではないはずだ。 しかし、考え方を変えれば、信仰をしていることによって、自分の通らなければならない因縁を、見る因縁や聞く因縁、おたすけする因縁に変えてくださるということでもある。どんなにひどい因縁があったとしても、お道を信仰している限り、その因縁は見て聞いておたすけをさせていただくだけで良く、自分が苦しまなくて良い。 なんとありがたいことかと。

たんのうは前生因縁のさんげだが…

「たんのうは前生因縁のさんげ」と教えられる。これは事あるごとに教えられていて、例えば明治二十年のおさしづに、「そこで、たんのうと心を定めるは、前生のさんげとなる。」や、「いんねん一つのさんげはたんのう一つの理を治め。」などとある。今ある苦しい状況を喜ぶことによって、前生に積んできた因縁を許してくださるのである。だから何があっても喜ぶことが大事だ。 何があっても、それを喜んで受け入れることができれば良いわけだが、なかなかそれができないのが人間である。たんのうというのは喜びの心だという人もいるが、自然と喜べるようなものではないだろう。苦しみ悩んで因縁を理解し、感情的には受け入れられなくても我慢し、無理やり喜ぶくらいでないと前生因縁のさんげにはならないだろうと私は思う。 例えば「成らん中たんのう、治められん処から治めるは、真実誠と言う。前生いんねんのさんげとも言う。」や、「ならん中たんのうするは、前生さんげ/\と言う。」、あるいは「出けんたんのうするは、前生いんねんのさんげ。」というように、どうにもならないことを抱えて、それでもたんのうすることで前生因縁のさんげとなるわけである。おさしづの文章を読めば簡単なように思えるかもしれないが、実際にはかなり苦しんだり悩んだりしているところでたんのうをしなければならないのだろう。 本当に苦しんだり悩んだりしているときには、たんのうできそうにもないのだが、それが分かるようにと神様は計らってくださる。それが「世上いんねん見てさんげえ。」や、「世上見てすれば治まらんやない。」というように、世上を見ることによってたんのうができ、それによってさんげができると仰る。もしもお道を通っていなかったらどうなっていたのかというのは、実際にお道を通っている自分にはわからないものであるが、それは「世上へ映してある」と仰る。明治二十年十二月十一日のおさしづには、 何で一つよう成らん。よう成らんではない。前々のさんげせと言うても分かるまい。神は世界四方正面として鏡に皆映してある。それ難儀な/\者も同んなし兄弟。俺もあんな身ならなあと、やれ/\たんのう、たんのうは誠より出やせん。 とある。お道を通っているからあんなひどいことにはなっていないのだということが分かるように、神様は世上に映してくださるのである。布教に歩かせていただいていれば、同じよう...

誠の心一つ

明治二十年七月のおさしづ「大阪近藤政慶若狭行きの伺」 さあ/\尋ねる事情を、どうせともこうせとも、行けとも行くなとも、どうしてやろうこうしてやろうとも、この処、前から言うた事はないで。何事も皆銘々の心次第と言うてある事やで。何処に居ても月日の身の内や。何処に居るのも同じ事、誠の心一つや。誠が天の理や。天の理にさえ叶えば、何処に居ても道が付くで。実誠無けねば、何処い行たとて、何をしたとて道は狭ばむばかりやで。しいかり聞き分ねば分からん。しいかり聞き分けて諭すがよい。 誠が天の理であって、天の理にかなってさえいれば、どこにいても道がつく。実誠がなければ、どこに行っても、何をしても道は狭くなる。ありがたく、厳しいお言葉である。布教にはコツや技術が必要だと思ってしまうのが人間心だが、最も大事なのは「誠の心」である。毎日の布教活動の中では忘れがちだが、決して忘れてはならない。

道皆ちゃんと決まりてある

明治二十年八月二十三日のおさしづに、 立毛の育つも、この世始めも同じ事、無い人間を拵えて、初めより、ものが言えたやない。一年経てば一つ分かる。又一つ分かれば、又一つ分かるように成って、もの言うように成りたも同じ事。順序事情の道を伝うて、何事も一つ/\分かる。道を伝うて、何事も一つ/\分かる。道皆ちゃんと決まりてあるのや程に。 何事もすぐにできるようになるのではなくて、一つ一つ分かっていくものである。「立毛の育つ」とは、つまり農作物が育つということだ。作物が育つには時間がかかる。人間がどれだけ世話をしたからといって、今日種を撒いて明日収穫するということはできない。何をやっても時間はかかるものである。だから焦っても仕方がない。 逆に、道はきちんと決まっていると仰るのだから、順序どおりにきちんと歩んでいれば良いのである。

使い勝手の悪いのは一度切り

自分に布教をした人が誰なのかとたどっていくことで理の流れが分かり、因縁も少しは分かる。だいたい、同じ因縁の人ににおいがかかるものだ。たどっていくと、においをかけた家がもう信仰していないということも多い。ある大教会の初代ににおいをかけた人の家系が絶えてしまっているということもよくある。 においをかけたことによって助けたのだから、その助けた理で少しは助かるだろうが、本気で信仰したわけではないのだから、一代限りしか助からないのだろう。神様は、その人を、ただにおいをかける道具としてしかお使いにならなかった。なぜだろうかと。 明治二十年三月十五日の刻限御話に、「さあ掃除や。箒が要るで、沢山要るで。使うてみて使い良いは、いつまでも使うで。使うてみて、使い勝手の悪いのは、一度切りやで。」、とある。道をつけるために神様はその人をお使いになったのだろうが、使い勝手が悪かったのだろう。 「使い良い」道具になれるような努力をしなければならないかと。

神の域に達するには、まず妖怪になれ

蛙の子はお玉やで、これはわかっているやろ。お玉は自分は蛙の子やとなかなか納得できないやろ。蛙とお玉はぜんぜん違うからなあ。お玉は、いつまでも鮒や泥鰌と一緒にいたいと思うやろ。それと同じようなことが人間にも言えるのや。人間はなあ、人間として生きる道は考えて通るやろうが、神の子としての道が本当に通れるやろうか。 口伝として残っている。人間は、人間思案だけで生きていれば、ただの人間として一生を終える。伝説の布教師と呼ばれる先生方は、人間として生きることを諦めたと、うちの師匠は教えてくれた。 神様のようにおたすけをされる先生方は、最初からそうだったのではない。そこに達する前に気持ち悪い状態があったと。師匠はそれを「妖怪」と呼ぶ。断っておくが、天理教の教えの中に「妖怪」というものはない。オタマジャクシからカエルになるときには、オタマジャクシでありながら足が生えてきて、オタマジャクシでもないカエルでもない、気持ち悪い格好になる。 ようぼくも素晴らしいおたすけ人になるにはこの気持ち悪い妖怪のような状態を経なければならないそうだ。もはや神の域に達しただろうと思うような素晴らしいおたすけ人の先生方には、必ず妖怪のような気持ち悪い時期があるとのこと。

所属教会と理の親という制度について

所属教会や理の親という制度には良い面もあれば悪い面もあり、悪い面が取り上げられることが多いように思う。例えば、やる気のない会長さんのいる教会に所属する信者が、所属を変更したいと言い出すことがあるそうだ。会長がはんこを押さなければできないわけだが、このような場合にはだいたいはんこを押してはくれない。それを不満に思う人も多いようだ。「神様が作った制度じゃない」とか、「こんな制度があると神様はきっと悲しんでいる」とか、そんなことをいう人も多い。 では、神様はどう思し召されるだろうか。もしもこの制度が間違っていて、それがあることによって世界だすけができなくなるのなら、そんな制度ができる前に潰されたはずだ。良い制度だとおっしゃるかどうかは分からないが、少なくとも許してはくださっているだろう。 この制度があるから世界だすけが遠のくという考え方は、おそらく人間思案だろう。人間の作った制度で神様の世界だすけを遠のけられると考えていること自体が高慢でしかない。 神様は世界中の人間を一日も早く助けてやりたいと思し召されるのだから、現在、この制度があるのならそれを利用して助けられるだろう。今のところ、所属教会という制度があるわけだが、ある人がその教会に所属している理由はというと、それがその人を助ける最善の方法だからだ。もしも他の教会に所属したほうが助かりやすいのなら、神様はそちらに所属させるはずだ。人間がどんな制度を考えたとしても、神様は最善の方法で全ての人を助けようとされる。 この世界は神様の世界であって、そして神様は必ず陽気ぐらし世界を実現される。そのために先回りのご守護をくださっている。もしも現状に不足をしているのなら、この当たり前のことがわかっていないとしか言えないわけで、つまり、まだ天理教を信仰していないとしか言えない。

辛い日は楽しみ

「辛い日は楽しみ」という言葉を師匠から教えていただいた。おさしづに載っているのだろうとは思っていたが、時間がなくてどこに載っているのか調べていなかった。いつか調べなきゃと思っていると、週報録の最初のページに掲載されていた。 さあ/\尋ねる処/\、内うちにはどうよこうよ日々経ち月々経ち、年限一つ修行、何も一つ/\辛い日を辛いと思わんよう。辛い日は楽しみ。辛い日辛いと思うから間違う。聞き分け。一日という。辛い中/\、辛い理より一つこうのうあろまい。しんどの中に実がある。楽の中に実が無い。この一つの理諭し置こう。

種は埋るもの

おさしづでは「種」を「埋る(おぼる)」という言葉がよく出てくる。「埋る」とは、埋めるという意味だ。植物の種を土の中に埋めておかなければ芽を出さない。土の中に埋めるというのは、つまり見えないところでしなければならないという意味だ。 人間は馬鹿な生き物だから、良いことをしても、それを誰かに認めてもらおうとする。誰かに認められて賞賛されたり、あるいはお礼を言われたりすると、良い気分になるものだ。苦労をして良いことをすることで、良い気分にしてもらい、それでプラスマイナスゼロになる。 人の前で良いことをするのは、ちょうどそれは石の上に種を蒔いているようなものだと教えていただく。石の上に種をまけば、他の人が見ることはできるだろうが、その種が芽を吹くことはないだろう。せっかく種を蒔くのなら、芽が出て欲しいと考えるのが普通で、それなら土の中に蒔かなければならない。 しかしながら、人間は人前で良いことをして、悪いことは陰でしてしまう。良い芽は出ず、悪い芽ばかりが出て、気がつけば大きく育ってしまうものだ。 陰の徳を積むというのは、お道の人間にとっては当たり前のことで今更言うまでもないことなのだが、それとともに陰で悪い種を蒔かぬよう、注意していきたい。

おたすけじゃないよ。おたすかりだよ。

おたすけをしないと家の中に助けてもらわなきゃならない困ったことが起きるよ。おたすけじゃないよ。おたすかりだよ。 愛町分教会の関根豊松先生が仰ったそうだ。なんとなく脅迫のようなイメージを持つ人もいるようだが、そうではない。陽気ぐらし世界建設を急き込まれる親神様の温かい親心であるということを理解しなければならない。 親神様が人間をお創りくだされた目的は、今更言うまでもなく陽気ぐらしを見て共に楽しむことである。しかし、人間はその目的を知らず、悪い因縁を積んできた。それが元で、とても陽気とは言えないような生活を送っているものもいるのである。親神様はこのような人間を何とかして助けたいと、常にそうお考えになっているのである。 人間は陽気ぐらしをするために創られたのだから、悪い因縁さえ切ってしまえば自ずと陽気ぐらしができるのである。因縁を切る方法は二つあって、一つは因縁通りに苦しむこと、そしてもう一つはおたすけをすることであるとお教えいただく。 親神様は因縁を切ってやりたいと思し召されるわけだが、かわいい我が子である人間を苦しめたいとは思わない。何とかして苦しまずに因縁を切ってやりたいという思いから、おたすけをさせてやりたいと、こう思し召されるのである。 人間が自ら進んでおたすけをするのが理想的だ。しかし、それをしない人間もいるだろう。自分ではおたすけに取りかかれない人に対しても、親神様はおたすけをさせてやりたいと思し召される。そして、どうやってもおたすけせざるをえない状況を用意してくださるのである。その一つの方法が、家族に身上や事情を見せることである。家族なら生活をともにしているのだから、おたすけしないわけにはいかないだろう。 なんとありがたい親心だろうか。 ただ、人間としては、家族に困った人が現れるのは、あまり好ましいことではないと考えるのが普通だ。それなら、外に向かっておたすけをするべきだろう。

神様のお手入れ

神様は陽気ぐらし世界を実現するために多くの人を必要としている。そのために必要なのが「ようぼく」である。このようぼくは親神様がお引き寄せくださり、お育て下さるのである。これが「ていり」である。「ていり」とは、今の日本語で言えば「手入れ」であると考えられる。 神様は多くのようぼくを必要とされていて、そのようぼくは神様が手入れしてくださるのである。木に例えて教えてくだされているのであるから、木が育つイメージを持っておく必要はあるだろう。 植栽された苗木は水や光、その他の栄養によって育って大きくなる。これを材木として使うためには枝打ちなどの手入れを行わなければならない。枝打ちの目的はいくつかある。 木が育つにつれて林の中は暗くなる。そして下の方にある日の当たらない枝はやがて枯れる。この枝が残っていると、そこから害虫が入ることもあるし、また枯れずに大きく育つと、木材にした時に節として残ってしまう。不要な枝を早めに落としてしまうことで、将来は良い材木として使うことができる。 おふでさきに いかなきもをふくよせてハあるけれど いがみかゞみハこれわかなハん  (三号五十) とある。神様から見た手入れというのは、立派に育つためには必要なものである。が、木の気持ちになってみるとどうだろうか。暑い夏に光を浴びて、そして冬には寒さに耐えて伸ばした枝を落とされてしまうのである。喜べることではないだろう。 にち/\によふほくにてわていりする どこがあしきとさらにをもうな   (三号百三十一) と仰せられる。神様が人間を手入れされるときも同じで、おそらく人間にとっては嫌なことであったり、辛く悲しいことであったりするのだろう。しかし、「どこが悪しきとさらに思うな」と仰るように、どこかが悪かったのではなく、それは将来のための手入れなのである。手入れがなければ嫌な思いやつらい思いをしなくて済むのだろうが、それを経てはじめてようぼくとなれるのである。もしも手入れがなかったらどうなるのだろうか。 をなじきもたん/\ていりするもあり そのまゝこかすきいもあるなり  (三号百三十二) 同じような木であっても、手入れするものと、そのまま「こかす」ものとがある。「こかす」とは「切り倒す」、「伐採する」という意味である。つまり、手入れするものと、切り倒されるものとがあると、こう...

古い輪転機で使える写真の加工

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においがけ用のパンフレットや行事の案内パンフレットを作成するときに、白黒で作成して輪転機で印刷すれば安く済む。LANでパソコンと繋げられる輪転機なら、グレースケールもきれいに印刷できるから良いのだが、そうではなくて、古い輪転機しか使えない時には、白黒の画像を用意する必要がある。このときに、エッジ処理すると、大したことのない写真が、そこそこ美しくなる。 ちなみに私は低スペックのChromebookを使っているので、オンラインのサービスがないものかと思って探してみると、ちょうどよいものがあった。 http://www.photo-kako.com/edge.cgi 例えば、下の画像を使うとしよう。 これをエッジ処理すると、 こんなふうにできる。なんだか美しい絵に見える。その方法だが、上記のページでいくつか設定しなければならない。まず、画像を指定しなければならないのだが、パソコンに保存してある画像ファイルを加工したいのなら、「Choose file」をクリックして画像をアップロードする。どこかのウェブサイトにある画像をそのまま使うのなら、その下にある「http://〜」というところに画像のURLを貼る。 次に、少し下の方にある「基本編集」というところの、「彩度」を「0%」に設定する。これでカラーではなくなる。そして「コントラスト」を「100%」に設定する。これでグレーがなくなり、白と黒だけに設定できる。あと、サイズを変更したければ「基本設定」の「横サイズ」のところを適当にイジれば良い。 これだけ設定して「設定・変換」にある「変換」のボタンを押せば右に表示される。 ああ、便利だ。

因縁

因縁というと、悪いものを思い浮かべてしまいがちだが、そうではない。そもそも因縁という言葉は仏教で用いられていた言葉で、天理教はその言葉を流用しているのであって、意味は異なる。 人間の身体は親神様のものであり、人間は身体をお借りしている。この世に生まれてくるという現象は、魂が親神様から新しい身体を借りることであり、死ぬという現象は神様に身体をお返しすることを意味する。死んだ後は、また新しい身体を借りてこの世に生まれてくる。魂は生き通しで、生まれ変わりを繰り返しているから、天理教では「死ぬ」と言わず、その代わりに「出直す」と言う。古い着物を脱ぎ捨てて新しい着物に着替えるようなものだとも教えていただく。 どれだけ多くの財産を築いたとしても、それを次の人生に持っていくことはできない。また、技術や知識なども持っていくことは出来ない。魂は財産も技術も知識も持つことはできないのである。しかし、何も持っていくことが出来ないのかというと、そうではない。人生の中で良いことも悪いこともするわけだが、それは魂に刻まれているのである。これが因縁である。 他の人と同じように暮らしていても、何をやってもうまくいく人はどこにでもいるものだが、おそらくこの人の魂は、ずっと人様のために良いことをしてきたのだろう。 このように言うと、人生は不公平なものに思えるかもしれないが、そうではない。親神様が人間をお創りになった時には、人間の魂には良い因縁も悪い因縁もなかった。それが、生まれ変わって長い年月が経つ間に、良い心遣いも悪い心遣いもし、それが魂に因縁として刻まれたのである。 このように考えていくと、「私の因縁はさぞかし悪いのだから、もう何をしてもダメだ」と思う人もいるだろう。確かにそう考えられなくもないのだが、そもそも因縁というものは、それほど恐ろしいものではない。もしも因縁通りにしか生きることが出来ないのなら、ずっと悪いことばかりしてきた魂を持つ人は苦しみ続けなければならないだろう。しかし、神様は悪い因縁を切る方法も教えてくださっているのである。それが、「たんのう」と「おたすけ」である。 因縁を切る方法を知らない人にとって、因縁は非常に恐ろしいものだろう。しかし、天理教の教えを知っていれば因縁を切る方法を知れるのだから、これほどありがたいことはない。もともと、人間は陽気ぐらしをす...

心の埃

心の埃を一言で言えば、親神様の思召に沿わない心遣いである。埃は目に見えないもので、知らず知らずのうちに積もってくるものである。心の埃も同じことで、目に見えず、知らず知らずのうちに使ってしまっている心遣いであるから、日々、反省をさせてもらわなければならない。これを胸の掃除と仰る。 埃というものは親神様の思召に沿わない心遣いということだから、一つではなくたくさんある。それを掃除するのに、おやさまは八つを挙げられた。心の埃の中で、多くの人が積みやすいものを八つ挙げてお教えくだされたのである。したがって、埃というものは八つだけではなく、親神様の思召に沿わないものはすべて埃の心遣いであるが、まず分かりやすいものとして八つを教えてくださった。 をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、この八つである。この八つは、この順に掃除をしやすいと言われることもある。つまり、「をしい」の埃は掃除しやすく、「こうまん」はもっとも掃除がしにくいと。おやさまがそう仰ったのではないが、このように言われることが多い。 八つの埃以外にも、うそ、ついしょ、この二つは埃であると仰せられる。おふでさきには、 月日にハうそとついしよこれきらい このさきなるわ月日しりぞく   十二号 113 とある。八つ以外の埃についても述べられているのである。 埃の心遣いをしたとしても、その場で何か見せられるわけではない。かなり積もってきてから神様はお知らせ下さる。その場で見せられたほうが分かりやすいと、そう思う人もいるようだが、これほど窮屈なことはないだろう。人間の親であるから、かわいい子供の悪い心遣いも、ある程度は見逃してくださり、自ら改めるのを待ってくださるのである。もうこれ以上、埃を積むと危ないという時になって、神様は分かるように教えて下さるのだが、そのときには、苦しい思いをしなければならないだろう。 心の埃は掃除をしなければならない。朝夕のおつとめのときに反省させていただくことが大事である。こうやって埃の心遣いを使わないように努力するとともに、神様に掃除してもらうことで、心遣いを改めていくのである。 埃の心遣いは、おそらく人間であるかぎりは誰もが使ってしまうものであろう。しかし、使いやすいものは人によって異なる。人間にはそれぞれ性分というものがあり、例えば気の短...

かしもの・かりもの

天理教を信仰する上で最も大事なことは、かしもの・かりものの理合いを納得することである。おふてさににも、 めへ/\のみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん 三号 13 とある。このかしもの・かりものの理合いが分からなければ、天理教の話は何もわからず、本当の信仰は出来ないのである。 我々人間から見れば神様から身体を借りており、神様から見れば貸しているということになる。また、この世界は親神様の身体であるとも教えていただく。我々は親神様から日々、御守護を頂いて生かされている。 人間が身体を神様から借りて生かされているのなら、人間は神様の操り人形なのかというとそうではなくて、一人ひとりの心には自由を許されているという点が大事だ。つまり、神様のものを自由に使わせていただいているのである。 「心一つが我の理」、「心ひとつが我のもの」とお教え頂く。この世の中で自由になるのは自分の心だけで、あとは自分の思い通りにはならない。それを納得しなければならない。 その自由になる心は、誤った使い方もできる。これを埃に例えてお教え下さる。心に埃を積むと、病気などで苦しまなければならなくなる。天理教の教えの中には、バチが当たるとか、懲らしめるとか、そういったことはない。「我が身恨み(わがみうらみ)」てあり、悪いことが起こるのは心遣いが間違っているからであると仰せられる。心を入れ替えることによって健康を取り戻すことができるのである。 体は神様のものであるから、すべてを自由にできるわけではない。例えば、心臓の動きを自由にコントロールできる人はいないだろう。体の中で自由に使うことのできるものを「九つの道具」とお教え頂く。具体的には目、耳、鼻、口、両手、両足、男女の道具だ。目と耳は二つずつあるが、働きは二つで一つだから、ここでは一つとして数える。手足は二本ずつあり、異なる働きができるから別々に数える。 借りたのなら借り賃を払わなければならないのだが、神様はタダで貸してくれているのだから、何か御礼をするべきだろう。 その御礼は、正しい心遣いで生きることである。言い換えれば、陽気ぐらしをすることである。埃の心遣いを続けてきたのなら、それを改めることが必要である。何を見ても喜び、何を聞いても喜ぶ、何を味わっても喜ぶ。こういったことで、親神様は喜んでくださるのである。

誠真実の心で因縁を果たす

前生の因縁を果たすには二つの方法がある。一つは自らが通って果たすことであり、もう一つはおたすけをすることである。 自らが通るというのは分かりやすい。例えば、前生で他の人を苦しめてきたのなら、その分だけ自分が苦しめば、それで果たすことができる。非常に分かりやすい。が、これは何も天理教が教えなければならないことでもないだろう。 天理教が教えるとすれば、そこで埃を積まないようにすることではないかと。前生のことを覚えている人はいないのだから、今生に悪いことが起こってくると、人間は納得ができない。そこで、その原因は自分ではないのだと、そう思いたがる。 例えば誰か他の人が原因で苦しんでいるということもあるだろう。表面的には確かにそうであっても、根本的な原因は因縁である。自分を苦しめた人を何とか排除すれば良いと思うかもしれないが、そうすると別の人がやはり自分を苦しめることになる。原因は自分の因縁にあるのだから、それは仕方がない。 何をしても自分が苦しまなければならないようになるのは、それも因縁を果たさせてやりたいという親神様の親心なのだが、人間には中々理解できない。教えを知っていたとしても、本当に苦しんでいる時には冷静に考えることも出来ないだろう。理解できなくても果たせるのだから、それはそれで良い。 ただ、苦しんでいる時には埃を積みやすい。「私が苦しんでいるのはアイツのせいだ」などと恨みの埃を積んでしまったり、癇癪を起こして腹立ちの埃を積んでしまったりすると、苦しんだことによって因縁を果たせたとしても、新たな埃で新たな因縁をつけてしまう。だから、たんのうしなければならないのだ。 神様は「人助けたら我が身助かる」と明確におっしゃっているのだから、自分が苦しみたくなければ人を助ければ良い。願えば神様は人を助けさせてくださる。おたすけで因縁を果たすというのが、もう一つの方法だ。 どちらかが一方的に良いということはなくて、おそらく両方必要なのだろうが、どちらが効率的なのかといえば、おたすけである。 おさしづに、「真実誠の心、一粒万倍の善き理を渡す。悪しきは神は利を付けはせんで。」とある。悪しき心に対しては「利を付けはせん」と仰せ下さるのだから、苦しめた分だけ苦めば良い。というより、苦しめた分だけは苦しまなければならない。 ...

布教によって陽気ぐらし

誠真実、誠の心、こういった言葉がよく用いられるが、その意味は「人を助ける心」だ。「誠」も「真実」も日本語と同じ意味で「本当」、「嘘偽りのないこと」であって、特別な意味があるわけではない。 元の理には、「この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」とある。人間は陽気ぐらしをするために創られたのだから、本当の心というのは陽気ぐらしができる心であり、それが人を助ける心という意味に通じる。 埃を払い、因縁を切ることができれば、人間が創られたばかりのときのキレイな心になれるのだから、本来の目的である陽気ぐらしは誰にでもできるのだ。そのために何をすれば良いのかというと、それは人によって違うだろう。布教が最も手っ取り早い方法だと、私はそう思うが、他の方法を否定するわけではない。

天理教は転換期に来ているとか来ていないとか

天理教は転換期に来ていると、そんなふうに言う人がいる。転換期とは何だろうか。ある時点で転換をしたのかどうかというのは後になって分かることであって、その時点ではわからない。ノイズがあるからだ。 単純なモデルを考えてみると、例えば信者数が分かりやすいだろう。信者数が増加している状態から現象している状態へと移った時には、転換期であったと言えるだろう。しかし、増加している状態の時に、そろそろ転換期だと判断することはできない。人間は未来を見ることはできないのだから。実際に減少に転じてから、転換期があったのだと分かる。 しかし、これも大きな流れで見なければわからないわけで、何らかの要因で一時的に増加することもあるだろう。短期的な増加と長期的な増加を一緒にしてはいけない。今日、偶然にも大幅な増加があったとしても、10年単位で見た場合に減少していることもある。短期的な変動によるノイズは常に発生するだろうから、局所的な部分を見て判断するべきではない。 では長期的、短期的とはどのような期間なのかというと、これも実は後になってみなければわからない。現時点では、立教から現在までが最も長い期間だが、何千年もの未来から見ればごく短期的なものでしかない。 何万年後かの人から見れば、今の我々はおやさまがご存命の時と大して変わらないと、私の師匠はよく言う。今の我々から見れば転換期に見えたとしても、何万年も経ってから今を見れば、立教から今までの変化は微々たるものであって、ノイズにすぎないのではないかと。 まだまだ小さい集まりでしかないのだし、まだ百何十年かしか経っていないのだから、あまり細かい変動に気を取られるべきではないだろう。大きなトレンドを見れば、確実に教えは広まっているのだから。

自分で布教をするのではない

「布教をする」という感覚は捨てなければならない。自分の力で布教をしているのではなく、神様が布教をさせてくださっているのだから、何があってもありがたいと思いながら歩かせていただくべきだろう。 布教師になると心を定めたときに神様は、私の魂の因縁、家の因縁、教会の因縁とを見極めて、最も良い道を通らせてくださっているのだから、今、与えられていることをしっかりと行っていれば良い。それにもかかわらず、「こんなことをしていて良いのだろうか」と考えるのは、神様に対して失礼だ。 考えてみれば、世の中には天理教を信仰していると言いながら、苦しむことでしか因縁を果たすことの出来ない人もいる。因縁を果たすには、因縁通りに苦しんでその中でたんのうするか、あるいはおたすけをするかの二つしか無い。「人助けたら我が身助かる」と明確にお教えくださっているのであって、それをせずに因縁通りに苦しむのは、天理教の最も良い所を捨てているようなものだ。 そう考えると、非常にありがたいと思えるはずなのだが、人間思案は中々捨てることができない。なんとも情けない。

天より神がしっかりと踏ん張りてやる程に

神様のお言葉に思い軽いはないのだから、すべて大事だ。それを断ったうえで、私が大事だと思うおさしづをここにコピペしておこうと思う。布教をしていれば心が折れそうになることもあるし、恐ろしく感じることもある。そんなときにありがたく思える。 明治二十年四月三日 檪の本にて大国屋へ清水梅谷両人おたすけの願 さあ/\尋ねる事情/\、身上に迫る処、尋ねる。尋ねるからは一つ諭しよう。よう聞き分け/\。この道は、常々に真実の神様や、教祖や、と言うて、常々の心神のさしづを堅くに守る事ならば、一里行けば一里、二里行けば二里、又三里行けば三里、又十里行けば十里、辺所へ出て、不意に一人で難儀はさゝぬぞえ。後とも知れず先とも知れず、天より神がしっかりと踏ん張りてやる程に。二人三人寄れば皆皆話し、今までは、わしはこんな心で居た、俺はこんな心使うて来た、と皆んなめん/\の心通り、言わしてみせる。神の自由自在、よう聞き分け/\。案じる事要らん/\。こういうさしづあったと、皆々の処へ伝えてくれ。一人や二人のさしづやないで。皆々伝えてくれ/\。 「天より神がしっかりと踏ん張りてやる程に」と仰せくださる。こんな頼もしいことはない。

パスワードは毎回入力しよう

パソコンを開くたびにパスワードを入力するのは少し面倒だ。が、毎回入力したほうが良いと、さっき思った。 私の使っているChromebookは、一旦電源を切れば、次に起動した時にはパスワードの入力を求められるが、電源を切らずに休止状態にした場合や、そのままにしておいた場合には、再び使うときに入力を求められない。デフォルトでそうなっていたので、そのまま使っている。 今の布教生活では、パソコンを外に持ち出すことがないので、このままでもいいかと思って使っていたのだが、ついさっき、システムの更新で再起動した。再起動すると、もちろんパスワードの入力を求められる。長い間、パスワードを入力していなかったので、忘れかけていた。思い出せなければどうなるのだろうかと思うと、ゾッとする。 忘れっぽい私は、パスワードを毎回入力して忘れないようにしたほうが良さそうだ。

俄に咲く花は

布教がうまくいっているかどうかは、あまり気にする必要はない。そもそも、そんなすぐに芽が出るはずがない。先人の布教師がどれだけ長い間苦労をされたのかを考えるべきだろう。明治二十四年十一月一日のおさしづに、 多く事情に世上の理、めん/\一人幾重の事情に、長くは先の楽しみ、短いは楽しみ無し。これ俄かに咲く花は、切って来て床へ挿してあるも同じ事。これはのじの無いものである。さあ/\これ根のある花は遅なる。なれども年々咲く。又枝に枝が栄える。根も踏ん張る。こゝの道理をよう思やんしてみよ。 こうある。こんなおさしづを読ませていただくと、むしろ何も成果がないほうが良いのではないかとも思う。もちろん、心が勇んでいるという前提だが。

なんとなく開設した

なぜブログを新しく開設したのかというと、その理由はいくつかある。Bloggerである理由は無料であることと、Googleが運営していることの二つだ。今まで色々なブログのサービスを利用したが、途中でサービスが打ち切られたことがある。Googleなら安心だろう。また、布教師という職業上、安定した収入は望めないので、月額料金が発生するサービスは利用できない。 何のために開設したのかと問われると少し困る。私の書いた文章が誰かの役に立つ可能性は極めて低いだろう。それを考えれば、誰かのために開設したというのは理由にならない。 自分でも何故なのかはよく分かっていないのだが、なんとなくだ。無理やり理由をつけるとすれば、記録のためであり、自己満足を満たすためであり、ここ10年以上ブログを運営し続けてきたことによる惰性によるものだと言えば、それなりに格好がつくかも知れない。理由を後から考えるのは簡単なことだが、どれも真実ではないし、そんなことは誰もがわかっているだろうから、わざわざ書くのはやめにする。 とにかくブログを開設していろいろ書いていくことにしよう。ただ、現在の私はブログライターでもなくゴーストライターでもなく、一介の布教師であり、布教こそが優先されるべきことであるから、更新の頻度にはバラつきがあるだろう。例えば、インターネットに接続することができなくなって、しばらく更新しないこともあり得る。あるいは、おたすけにかかっていれば、ブログを更新している暇はないだろう。 いろいろあるが、せっかく開設したので、できるかぎり真面目に更新していきたいと思う。