神様のお手入れ

神様は陽気ぐらし世界を実現するために多くの人を必要としている。そのために必要なのが「ようぼく」である。このようぼくは親神様がお引き寄せくださり、お育て下さるのである。これが「ていり」である。「ていり」とは、今の日本語で言えば「手入れ」であると考えられる。

神様は多くのようぼくを必要とされていて、そのようぼくは神様が手入れしてくださるのである。木に例えて教えてくだされているのであるから、木が育つイメージを持っておく必要はあるだろう。

植栽された苗木は水や光、その他の栄養によって育って大きくなる。これを材木として使うためには枝打ちなどの手入れを行わなければならない。枝打ちの目的はいくつかある。

木が育つにつれて林の中は暗くなる。そして下の方にある日の当たらない枝はやがて枯れる。この枝が残っていると、そこから害虫が入ることもあるし、また枯れずに大きく育つと、木材にした時に節として残ってしまう。不要な枝を早めに落としてしまうことで、将来は良い材木として使うことができる。

おふでさきに
いかなきもをふくよせてハあるけれど
いがみかゞみハこれわかなハん  (三号五十)
とある。神様から見た手入れというのは、立派に育つためには必要なものである。が、木の気持ちになってみるとどうだろうか。暑い夏に光を浴びて、そして冬には寒さに耐えて伸ばした枝を落とされてしまうのである。喜べることではないだろう。
にち/\によふほくにてわていりする
どこがあしきとさらにをもうな   (三号百三十一)
と仰せられる。神様が人間を手入れされるときも同じで、おそらく人間にとっては嫌なことであったり、辛く悲しいことであったりするのだろう。しかし、「どこが悪しきとさらに思うな」と仰るように、どこかが悪かったのではなく、それは将来のための手入れなのである。手入れがなければ嫌な思いやつらい思いをしなくて済むのだろうが、それを経てはじめてようぼくとなれるのである。もしも手入れがなかったらどうなるのだろうか。
をなじきもたん/\ていりするもあり
そのまゝこかすきいもあるなり  (三号百三十二)
同じような木であっても、手入れするものと、そのまま「こかす」ものとがある。「こかす」とは「切り倒す」、「伐採する」という意味である。つまり、手入れするものと、切り倒されるものとがあると、こう仰る。

嫌なこと、辛いこと、悲しいことは、人間なら避けたいと思うのが普通なのだが、避けてばかりいると「そのままこかす木」になってしまうのである。ようぼくとして生きるという心を定めたのであれば、嫌なことや辛いこと、悲しいことがあったときに、「これが神様のお手入れなのだから、これでまた少し素晴らしいようぼくへと成人できる。」と、こう喜ぶべきであろう。

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