自分で布教をするのではない
「布教をする」という感覚は捨てなければならない。自分の力で布教をしているのではなく、神様が布教をさせてくださっているのだから、何があってもありがたいと思いながら歩かせていただくべきだろう。
布教師になると心を定めたときに神様は、私の魂の因縁、家の因縁、教会の因縁とを見極めて、最も良い道を通らせてくださっているのだから、今、与えられていることをしっかりと行っていれば良い。それにもかかわらず、「こんなことをしていて良いのだろうか」と考えるのは、神様に対して失礼だ。
考えてみれば、世の中には天理教を信仰していると言いながら、苦しむことでしか因縁を果たすことの出来ない人もいる。因縁を果たすには、因縁通りに苦しんでその中でたんのうするか、あるいはおたすけをするかの二つしか無い。「人助けたら我が身助かる」と明確にお教えくださっているのであって、それをせずに因縁通りに苦しむのは、天理教の最も良い所を捨てているようなものだ。
そう考えると、非常にありがたいと思えるはずなのだが、人間思案は中々捨てることができない。なんとも情けない。
布教師になると心を定めたときに神様は、私の魂の因縁、家の因縁、教会の因縁とを見極めて、最も良い道を通らせてくださっているのだから、今、与えられていることをしっかりと行っていれば良い。それにもかかわらず、「こんなことをしていて良いのだろうか」と考えるのは、神様に対して失礼だ。
考えてみれば、世の中には天理教を信仰していると言いながら、苦しむことでしか因縁を果たすことの出来ない人もいる。因縁を果たすには、因縁通りに苦しんでその中でたんのうするか、あるいはおたすけをするかの二つしか無い。「人助けたら我が身助かる」と明確にお教えくださっているのであって、それをせずに因縁通りに苦しむのは、天理教の最も良い所を捨てているようなものだ。
そう考えると、非常にありがたいと思えるはずなのだが、人間思案は中々捨てることができない。なんとも情けない。