「においがけ」と「おたすけ」の区別は難しい

「においがけに行って来ます」と言えば、戸別訪問や神名流し、路傍講演などをしにいくという意味になるわけで、これは便宜上、そういう意味の言葉とし「においがけ」と言っているわけたが、実際ににおいがけをするのは人間ではない。おさしづに、
どんな処にをい掛かるも神が働くから掛かる。
とある。 においがけの主体は神様であって、人間が頑張ってどうにかなるものではない。おたすけも同じで、具体的には神様の話を取り次いでおさづけを取り次ぎ、お願いづとめをするくらいのことしか人間にはできない。たすける主体は神様だ。

においがけのつもりで戸別訪問をして神様の話をさせていただいただけでたすかる人もいる。そのときはたすからなくても、後になってたすかることもある。

10年以上も前に教会で話を聞いたことがあるという人に、天理教でたすけてほしいと言われたことがある。結果として大きな御守護をいただいたわけだが、それは私だけの手柄ではない。最初に話を取り次いだ先生がいなければ、その人はたすからなかっただろう。そう考えれば、神様が10年以上の時間をかけておたすけくださったわけで、その一連の中でにおいがけがあったわけだから、どこまでがにおいがけで、どこからがおたすけかという区別はできない。

強いて言うのなら、においがけというのは、すでにおたすけをしていることになるわけだ。そう考えれば、パンフレットを配っているだけで大きな御守護をいただく人がいるのも納得できる。

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