一番大切なこと

元の理の冒頭に、
 この世の元初りは、どろ海であつた。
 月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。
とある。文書を作成するときやお話の原稿を書くときには、一番大切なことを最初に書くのが普通だ。まあ、人間の集中力なんてものは最初の数分くらいしかもたないのだから、一番大切なことを最初に言っておかないと伝わらない。集中力が切れてるときに、素晴らしい話をいくら聞いても、頭に入ってこないだろう。と、そういう技術的なことを開設してもここでは意味はないのでやめることにするが、なにしろ一番大事なことはこの部分だと私は思う。

人間が陽気ぐらしをするのを見てともに楽しもうと思いた、というのが人間創造の目的である。「ともに」とあるは、人間が楽しむのを見て神様も楽しむという意味だ。

教典と教祖伝の冒頭には、
我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降つた。みきを神のやしろに貰い受けたい
とある。「世界一れつをたすけるため」と、立教の目的を述べられている。

神様は陽気ぐらしをさせるために人間をお造りになったのだから、すべての人間は「普通」の状態で陽気ぐらしができるのである。それにもかかわらず苦しんだり悩んだりしている人間をたすけるために天理教が始まったのである。

誤解を恐れずに分かりやすく言えば、人間は幸せになるために造られたのであって、その方法を伝えるために天理教がある。これが一番大事なことだと私は思う。それを知らなければつまらない信仰になってしまうだろう。

例えば、「私は因縁が悪いから信仰しなければならないんです。」などという言葉を聞くことがある。因縁に追われて信仰しているようなものだ。まあ、その考え方はそれぞれの自由だから否定しない。しかし、因縁が悪いから永遠に不幸に暮らさなければならないと思う必要はない。因縁は切ることができる。神様は因縁を切る方法をいくつも教えてくださっている。それを教えるのも立教の目的の一つだ。

因縁を切ればどうなるのだろうか?それを知らずに努力し続けるのは、目的地が分からずに走り続けているようで心許ない。因縁を切れば、魂は「普通」の状態に戻るわけで、つまり陽気ぐらしができるのである。因縁を切ることが目的ではなく、幸せになるのが目的である。

「天理教はたすかる教えだよ。因縁で苦しむ教えじゃないよ」と、師匠が仰っていたことを思い出す。誰もが幸せになることができる教えであるということが、一番大切なのではないかと。

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