人間をはじめかけた証拠だから

おふでさきの第十七号九番のおうたに

にんけんをはじめかけたるしよこふに
かんろふたいをすゑておくぞや

とある。現代日本語にすれば、「人間を始めけけたる証拠に甘露台を据えておくぞや」となる。人間を始めかけた証拠として甘露台を据えておくということだが、何が証拠になるのだろうかと、そんなことを昔から考えていた。

ふと思い出したのが師匠の言葉だ。「この道は証拠信心だ」とよく仰っていた。その意味は師匠がおっしゃるには、この道は本物の神様が教えてくださったのだから、その証拠を必ずお示しくださる。この教えは本当の教えだという証拠を神様から与えてくださったからこそ、先人はこの道を真剣に通ってこられたのだと。

証拠というのは、本当の神様である証拠であり、神様の仰っていることが本当であるという証拠であって、それは何らかの具体的な現象として現れるものであると、昔はそんな意味で使われていたのだろう。

おたすけにかかったとき、わざわざ御本部の神殿まで行き、甘露台の前で願うわけだが、それで御守護を頂いたという経験は誰もが持っていると思う。甘露台に向かって願えば御守護をいただける、ということは当たり前のようであるが、それが甘露台が人間を始めだした場所であることの証拠であるということなのだろう。

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