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photo-acで報酬が発生!

photo-acで報酬が発生した。投稿した写真がダウンロードされると報酬が発生する仕組みになっている。私の撮影した写真を使おうと思ってくれた人がいたわけだ。 もちろんだが大した金額ではない。どこまで書いて良いのかわからないので細かいことは言わないが、とにかくまだまだ先は長い。 ダウンロードされた写真がどれなのか知ることはできる。「えっ?これが?」というのが正直な感想だ。それほど良い写真とも思わないが、せっかく撮影したのだから投稿しておこうという感じだったので驚いている。 何に需要があるのか分からないものだ。

photo-acに登録してみた

ちょっとした行事の案内やリーフレットが必要になったとき、もちろん自分で作るわけだが、そのときに必用なラストや画像などの素材は、インターネットの無料素材を使わせてもらっている。よく使うサービスがphoto-aとillust-acだ。 どちらのサイトも無料で利用できるし、有料のサービスもある。素材は特定のプロが提供しているのではなく、登録した多数のユーザーがアップロードするという方式を取っている。プロでなくても素材を提供できる。 いつもお世話になっているので、私も素材を提供してみようかと思った。イラストを書くのは大変そうなのでまずはphoto-acだけに登録した。もしダウンロードされればお小遣いももらえるそうだ。 登録の手続きはすぐに終わった。もちろんスマホで完結。本人確認書類を提出する必要があったが、それもスマホで撮影した画像を送信して終わりだ。とても簡単。土日を挟んだからだろうとは思うが、三日後に登録が完了したというメールが届いた。 それから数日、外出したときに、スマホで撮影してアップロードするということを繰り返して、60枚ほどアップロードしたら、数日して1枚だけ審査に通って公開された。通常は 2週間から3週間かかると書かれていたから、随分と早いなあと感じた。 こんな感じでアップロードを続けていけばよいのかどうなのか分からないが、まあ面白そうなので続けてみようかと思う。 ちなみに、位置情報は削除しておいたほうが良さそうだなあと思うわけだが、その方法を書き始めると長くなりそうなのでまた次回。

Google Photoの写真を整理中

グーグルフォトが一部有料化になってしばらくになる。そろそろ写真の保存を考えていかなければならない。以前のグーグルフォトは、画質さえ気にしなければ容量無制限で写真を保存できたから、気にせず使っていた。中には絶対に要らないだろうというようなものやほぼ同じようなものあった。私みたいな人がたくさんいて、必要もないのにアップロードすることで大きな負荷をかけていたのが有料化の原因なのだろう。反省。 無制限ではなくなったものの、15GBは無料で使えるのだから、その範囲内で利用しようかと思う。現在のところは6GBくらい使っていて、あと1年くらいは大丈夫だとグーグルが教えてくれた。1年なんてあっという間だろうから、そろそろ対策を考えようかと。 大切な思い出が消失しないために、2箇所に保存しておこう思う。1箇所だと何があるかわからない。例えば1台のハードディスクに保存しておいて、そのハードディスクが壊れたら泣くしかない。2台のハードディスクに同じものを保存しておくのも良い方法だ。が、どちらもハードディスクというよりは異なるもののほうが良い。多様性が大事だ。 まあそんなことは というわけで、ハードディスクとDVDに保存することにした。久しぶりにハードディスクを買った。安くなったもんだ。 で、パソコンのブラウザでグーグルフォトを開き、写真を何枚かづつダウンロードして、ハードディスク上で分類していくという面倒な作業をしている途中で思い出したのだが、そういえばまとめてダウンロードする機能がグーグルフォトには備わっていたのではないかと…。もうあと少しだから、まあいいか。先に気づいていれば随分楽だったろうに…。  

逸話篇二十六 麻と絹と木綿の話

麻はなあ、夏に着たら風通しがようて、肌につかんし、これ程涼しゅうてええものはないやろ。が、冬は寒うて着られん。夏だけのものや。三年も着ると色が来る。色が来てしもたら、値打ちはそれまでや。濃い色に染め直しても、色むらが出る。そうなったら、反故と一しょや。絹は、羽織にしても着物にしても、上品でええなあ。買う時は高いけど、誰でも皆、ほしいもんや。でも、絹のような人になったら、あかんで。新しい間はええけど、一寸古うなったら、どうにもならん。そこへいくと、木綿は、どんな人でも使うている、ありきたりのものやが、これ程重宝で、使い道の広いものはない。冬は暖かいし、夏は、汗をかいても、よう吸い取る。よごれたら、何遍でも洗濯が出来る。色があせたり、古うなって着られんようになったら、おしめにでも、雑巾にでも、わらじにでもなる。形がのうなるところまで使えるのが、木綿や。木綿のような心の人を、神様は、お望みになっているのやで。 神様がお望みになる心を表した逸話だ。神様の目から見て使い道が広く、いつまでも使うことができるというのがようぼくのあるべき姿である。 自分にしかできないことを活かして御用を勤めさせていただきたい、というのは違うのだろう。「私は○○の資格を持っていますので、きっと教会の力になれます。」というのは、入信したての人なら良いかもしれないが、神様のお望みになる心ではない。 誰でもできるが誰もやりたがらないことこそひのきしんだ!とある先生が仰っていたのを思い出した。なるほど。

そろそろ色づいてきた

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六甲山もぼちぼち紅葉が美しくなってきた。 北区に用事で行った帰りに、再度山によってみた。 無料駐車場があるのでたすかる。池の周りを一周歩いた。これくらいが調度良い運動だ。 ちなみに、「再度山」は「ふたたびさん」あるいは「ふたたびやま」と読む。弘法大師が唐へ渡る前にこの山へ参り、そして唐から帰ってきたときに、再び参ったことからこの名前がついたそうだ。

神戸の山道のカーブには番号がある

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山道のカーブには番号がふってある。 この番号が何に使われているのかは知らない。通報するときに現在位置がわかりやすいとか、そんな目的なのか何なのかわからないが、とにかく番号がふってあって、平地側がカーブNo.1だ。 平地に住んでいる私の場合、帰り道はカウントダウンしながら走っている。 全国的にこうなのだろうかね?

神戸は山が近くて良い

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神戸は景色が良い。車で少し走れば六甲山に登ることができる。山頂近くまで登らなくても、少し登るだけで十分に景色が良い。 プロのカメラマンではない私が撮影したのだから、もちろん実物はもっと素晴らしい。撮影した場所は灘丸山公園。海まで見える。 こんなスポットが身近にあるというのが、神戸の魅力の一つだろう。 ちなみに灘丸山公園には広い芝生の広場と遊具がいくつかあって、無料駐車場もあるので、子供を遊ばせるにはちょうどよい。

inkscapeのショートカットキーが反応しないとき

 inkscapeのショートカットキーが反応しなくなった。いつからか分からない。コピペなどもアンドゥーも面倒くさくて仕方なかった。こんなときはグーグル先生だ。 「inkscape ショートカットキー 反応しない」でググれば色々と出てきたが、私の場合、言語を追加するという方法で解決した。ちなみに環境はWindows10だ。 言語を追加するというのは、Windowsの方で設定する。コントロールパネルから言語の追加を探すわけだが、追加する言語は「英語(米国)」だ。追加してinkscapeを再起動するとショートカットキーが反応するようになった。 やっぱ、ショートカットキーがあると格段にスピードが上がる。

神戸に移住した

 神戸に移住した。 大阪からはそれほど遠くはないが、移住する前には訪れたことがあまりなかった。正直なところ、あまり知らなかったわけだが、移住してみると魅力的なところがたくさんある。 例えば、六甲山がいつでも見える。今の時期なら、そろそろ紅葉が始まるのだろう、などと思いながら四季を感じて毎日すごしている。天気によっても山の雰囲気も変わる。美しいなと思いながら毎日を過ごしているのだが、神戸の人はそれほど感動しないらしい。六甲山が見えるのは当たり前だからだとか。 神戸に移住してきた人間のほうが、神戸の魅力に気づきやすいのだろう。せっかくなのでブログに書いていこうかと思う。

逸話篇二十四 よう帰ってきたなあ

 逸話篇 二十六 目が見えなくなった彦太郎が、おやさまに救けてもらう話である。彦太郎はおやさまに このままで越すことかないません。治して下さるのでしたら、どんな事でもさしてもらいます。 と申し上げてご守護をいただくわけである。この「どんな事でもさしてもらいます」というところに神様はご守護くださるのだろう。 「私はこういう資格を持っていますので、それを生かせるような御用を勤めさせていただきたい」などと言ってみたり、「この御用なら勤めさせてもらいます」などと言ってみたりするのが人間心であり、御守護はいただきにくい。 「どんな事でも」と神様と約束してしまうと、もちろん不得意なこと、嫌なこと、都合の悪いこともしなければならないわけだが、それを承知の上でどんな事でもさせていただくという心に神様は御守護を下さるのだろう。 特技を生かして仕事をするのは良いことだとは思うが、それは人間の社会の中のこと。特技を生かして御用を勤めさせていただこうなどと考えるべきではないと私は思う。

逸話篇二十一 結構や、結構や

 悪いことが起こるのは、決して悪いことではない。と言うと、意味がわからない人もいるだろうが、恐らく信仰者なら理解できるはずだ。 逸話篇の二十一「結構や、結構や」では、山中忠七先生が洪水の被害に遭われる。おやさまに伺うと、 さあ/\、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで。 と、おやさまは仰った。先生の前生がどのようなものなのかは分からないが、これによって前生の因縁を納消できたのだから、あとは余計な埃を積まずにたんのうしておけば良いという意味で、おやさまは仰ったのだろう。 神様の世界に運や偶然というものはなく、全てには理由がある。悪いことが起こるのは、もちろんその因縁があるわけだが、たんのうさえしていれば、神様は因縁を少しずつ切ってくださる。 悪いことが起こるたびに、魂は少しずつ澄んでいき、陽気暮らしへと近づいていくのだから、ありがたいことだ。

バリスタアイの水切れランプが点灯して停止する

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 バリスタアイの水切れランプが点灯して止まるという現象が続いた。水は十分にあるにも関わらずだ。掃除しても治らない。いろいろ試してみたが、サポートセンターに電話をして解決した。 詳しいことはわからないが、「撹拌部」というところが詰まっているそうだ。電話をすると、撹拌部を掃除するためのものを送ってくれた。 使い方の書かれた紙もついていたので、そのとおりにやってみると、たしかに治った。良かった。 ちなみに、バリスタアイは買ったものではなく、リースとかでもない。何のキャンペーンだったか忘れたが、ゴールドブレンドを3つ買ってもらったやつだ。それでもサポートが対応してくれるのはありがたいなぁ。

おぢばの学校が減るそうだが

 おぢばの高校は天理高校だけになることはすでに決まったことだが、先日、教会へ行ったときにこの話題になった。 教校学園をなくす理由は、もちろん多くの理由があるだろうが、一つには組織が出来上がりすぎたからだそうだ。彼が言うには、いつ何をするのか、それが完成されていて、その通りにすれば何も困らず運営ができる。かつて存在した付属高校や第二専修科も同じだと彼はいう。 一つ一つの手続きは試行錯誤の末に作られたものであり、すべてに意味がある。もちろんその意味を伝えながら手続きも伝えていくわけだが、意味は忘れられても手続きさえ分かれば運営はできる。人から人へと伝えていくのだから、組織が長く続けば、そのうち意味のわからないことだらけになってくると。 さて、見るも因縁だ。自分の周りにもそんなことがないだろうか。 多くの行事が中止されている今だからこそ、一つ一つの意味を考えてみるのも良いかもしれない。

マイナンバーカードで転出証明書が不要き

 デジタル化の進んだ未来の人が読むと、きっと笑ってくれるであろう。 東大阪から神戸に引っ越しをした。マイナンバーカードをすでに持っていると、とても便利らしい。なんと、転出証明書が必要ない。東大阪市役所で手続きを済ませ、神戸の区役所へ来たときには、転出証明書の代わりにマイナンバーカードを提示した。デジタル化が進んだものだ。 区役所の転入の窓口にいくと、次に行くべきいくつかの窓口の案内と、それぞれの窓口に提出する書類を受け取った。紙がたくさん。 今の所、転出証明書という紙は必要なくなったが、それ以外はあまり変わっていないように思う。 結局はたくさんの書類を持って、いろんな窓口に行かなきゃならない。なんとかならないものかと…。

Inkscapeで印刷すると画質が落ちる

 Inkscapeで印刷すると、一昔前のプリンターのような粗い画質で印刷されるので困っていたが、一旦PDF形式で保存してから印刷すると、きれいに印刷できた。 使ったのはAdobe Acrobat Reader DC。無料のソフトだ。が、使うのにいくつかコツがいる。 基本的には、InkscapeからPDF形式で保存すれば良い。「別名で保存」を選んでファイル形式を「 Portable Document Format (*.pdf)」にして保存する。すると、保存した場所にPDFファイルが作成されているはずだ。これを開けばきれいに印刷できる。 ここまで簡単にできたのだが、印刷するサイズを希望通りにできなくてずいぶん試行錯誤した。A4でレイアウトしたものをA4で印刷するのなら問題はなかったのだが、Inkscapeで用紙の設定をB5にしているとうまく印刷できない。いろいろ試した挙げ句、諦めて設定をA4にし、すべてを拡大することで解決した。 Inkscapeのバグなのか設定ミスなのか何なのか分からないが、解決したからまあ良いか。

逸話篇一三二 おいしいと言うて

 最初に宿しこまれた子供の数が九億九万九千九百九十九であったわけだが、現在の人口はこの数を大きく上回るのを、子供のときに不思議に思った。一応のところは解決した。逸話篇の132だ。 皆んなも、食べる時には、おいしい、おいしいと言うてやっておくれ。人間に、おいしいと言うて食べてもろうたら、喜ばれた理で、今度は出世して、生まれ替わる度毎に、人間の方へ近うなって来るのやで。(中略)各地の講社から、兎、雉子、山鳥などが供えられて来た時も、これ と同じように仰せられた、という。 こうやって人間が増えていったと考えることはできる。現在の人口を考えてみると、人間は長い間、おいしいと言って食べてきたのだろう。 おたすけにしても丹精にしても、成人してもらわなければならないわけだが、口で言って分かってくれないことは多い。こんなときには「喜ぶ」のが良いと、この逸話は教えてくれているように思う。「喜ばれた理」で、魚でさえ人間に近くなるわけだから、人間でも成人してくださるだろう。 理の子がなにか悪いことをしたと言って腹を立てたり、すべきことをしないと陰口をたたいたりしていると、成人してくださることはないだ。理の子が何をしてもこちらは全力で喜ぶくらいにならなければならない。不足を言っていてたすかってもらえるはずがない。

逸話篇四六 何から何まで

全文を引用する。 ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司が、増井りんに、「それを料理するように。」と、言い付けた。りんは、出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おりんさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理しておくれ。」 と言った。出刃はなかったのである。 りんは、余りのことと思ったので、ある日お暇を願うて、河内へもどった。ちょうど、その日は、八尾のお逮夜であったので、早速、八尾へ出かけて、出刃庖丁と薄い刺身庖丁と鋏など、一揃い買うて来て、お屋敷へ帰り、お土産に差し上げた。秀司もまつゑも大層喜んで、秀司は、「こんな結構なもの、お祖母様に見せる。一しょにおいで。」 と促した。 教祖(おやさま)にお目にかかって、留守にしたお礼を、申し上げると、教祖は、それをお頂きになって、 「おりんさん、何から何まで、気を付けてくれたのやなあ。有難いなあ。」 と、仰せになって、お喜び下された。りんは、余りの勿体なさに、畳に額をすり付けて、むせび泣いた、という。 神様の御用を勤めさせていただくとき、必要なものはすべて自分で揃えるくらいの心でいれば、おやさまは喜んでくださるのだろう。 魚をさばく包丁がないからと言って、「お屋敷の会計で包丁を買ってください」と、増井りん先生は仰らなかった。誰かにお金を渡して包丁を買って来るように言いつけたわけでもない。自分で歩いて行き、自分のお金で包丁を買って、それを使って御用を勤められたのである。 足りないものがあれば自分で揃えてお供えすればよい。「もの」だけではない。こういう人が必要だと思えば、自らがそうなれば良い。足りないものに気がつくと言っても、自分で気づいているのではなく、神様が気付かせて下さっているのであって、そこが徳を積むチャンスだ。 組織が大きくなり、立場ができてくると、こういうことを忘れてしまう。必要なものは会計から出してもらおうなどと言ったりするものである。 「お守り所のコーヒーがないで!」と青年さんに怒鳴り散らす役員など、一ミリも見習わなくて良い。

逸話篇一二三 人がめどか

船場の初代、梅谷四郎兵衛先生は短気であったと言う人が多いようだが、実はそうではないと聞かせていただいたことがある。逸話篇の一二三「人がめどか」には 明治十六年、折から普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、「大阪の食い詰め左官が、大和三界まで仕事に来て。」との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜、ひそかに荷物を取りまとめて、大阪へもどろうとした。 とある。大阪一の左官職人が、大和の田舎者にバカにされたわけたが、もし私がそう言われたらその場でキレていたのではないかと思う。とりあえずその場はグッと我慢して、夜まで我慢し、誰にキレることなくそっと出ていこうとされたのである。 いろんな先生から話を聞いていると、梅谷先生のことを悪く言ったのは一人ではない。仲間はずれの状態であったそうだ。田舎者の村社会の中に都会からだれかやってくれば、妬みやそねみがあっても不思議ではない。 すでに出来上がっているグループというの、いつも通りにやっていれば良いのだから居心地は良い。メンバーが増えたり変わったりすることで居心地の良さが失われることを恐れるのだろう。 友達同士ならそれでよいわけだが、教えを広めることを目的としている集団がそうあってはならない。自分たちだけが楽しむようなことになっていないか気をつけていかなければならない。

うをとみ

 夫婦が陽気ぐらしの基本などと言われることがある。親神様が人間創造を思いつかれたときに、最初に夫婦の雛形としてうをとみとをお引き寄せくださったと元の理にあるからだろう。 うを に しゃち を仕込んで月様がお入り込みになる。 み に かめ を仕込んで日様がお入り込みになる。 こうして夫婦の雛形が定まる。男雛形と女雛形は、違うものに違う道具を仕込み、違う神様が入り込まれてできたものであるから、全く違うのである。 しゃちは勢いが強いとか、かめはじっと耐えるとか、そういった細かいことを考えるのも面白いが、最も大事なことは、「違う」ことだと、私は思う。まったく違う二つから世界が始まったのである。 同じようなもの同士であれば分かり合うことは難しくないだろうからうまくいきそうなものだ。しかし、おそらく神様の仰る陽気ぐらしはそうではない。 考え方の違う者同士がお高いを理解しようと努力し、歩み寄っていくことこそを神様は望んでおられるように思う。 異なる考え方をもつ者を排除するという考え方では、いつまでたっても陽気ぐらし世界は実現しないように思う。

「救かる」を単語登録

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 Androidの日本語入力に、私はGoogle日本語入力を使っている。Gboardよりも使いやすいし、登録されている単語も多い。いずれはGboardに統合されるという噂も聞くからGboardも使ってみたが、思うように変換してくれないことが多いので、再びGoogle日本語入力を使うようになった。 そのGoogle日本語入力でも変換してくれない単語は「Google 日本語入力設定」の「辞書ツール」で単語を登録すれば良い。 「たすける」と変換すると「救ける」と変換してくれるが、「たすかる」を「救かる」とは変換してくれない。これを登録するには以下のようにする。 こうしておけば、例えば「たすかった」の候補に「救かった」が表示される。ラ行変格活用ではなくラ行五段活用だから、「動詞ラ変」ではなく「動詞ラ行五段」を選ぶこと。 他のアブリでもだいたい同じようにすれば良い。

頑張ろうかと

息子が生後何ヶ月かのとき、寝返りを打つことができそうな時期があった。もう少しで寝返りを打てそうなとき、夫婦で目を輝かせながら見守ったものだ。やっと寝返りを打てたときには、二人で大喜びしたのを思い出す。 寝返りを打てた瞬間はもちろん大喜びしたが、それだけではない。できるようになろうと一所懸命努力しているように見えただけで喜べるものである。 これが親の心なのだろうかと。 神さんの信心はな、神さんを、産んでくれ親と同んなじように思いなはれや。そしたらほんまの信心が出来ますねで。 逸話篇の一〇四「信心はな」で、おやさまがこう仰っている。 神様は「何かができる」ことを喜んでくださるのではなくて、「何かができるようになった」、あるいは「できるようになろうと頑張っている」ことを喜んでくださるではないかと。

教会の神様

大教会には御霊様のお社が二つある。二つあるから参拝するときには別々に拝む。これは当たり前のことなのだが、祭典日などで祭主が上段から拝むときには別々に拝まずに、一回にまとめて拝む。その理由が長らくわからなかった。 御本部の祖霊殿にはお社が三つあるから、祖霊殿で拝むときには三回拝むのが当たり前だ。が、神殿から祖霊殿を拝むときには一度しか拝まない。それと同じで、上段から拝むときには一度しか拝まないのではないかと教えてくれた役員さんがいた。それもなんとなく理解できなくはない。 他のいろんな人がいろんな理由付けをしているようだが、あまり大した理由はないようだ。真柱様がそれしたからそれを真似ているというのが現実らしい。大教会の記念祭に真柱様が来られたとき、上段から御霊様を一度しか拝まなかったということがあってから、大教会ではそうするようになったそうだ。 例えば、教務支庁に来られたとき、親神様、おやさま、御霊様と拝まれた。正面に向かって拝んだあと、少し右に向かって拝み、そして少し左を向いて拝まれた。その教務支庁には親神様のお社しかないにもかかわらずだ。 おやさまのお社がないということは御目標様もないわけだ。何も祀られていない場所に向かって拝まれたのだから驚きだ。 考えてみれば、「御目標様」と言うくらいだから、拝む目印みたいなものでしかないとも考えられる。逸話篇の一六四「可愛い一杯」に、 神と言うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし とあるのだから、お社の中に神様がいるわけではないのだから、お社に向かって拝む必要もないのだろう。しかしそういうものがなければ拝みにくいだろうからと、神様が許してくださっているように思う。 だからといって御目標様や神実様を粗末に扱って良いというわけではない。しかし、御目標様や神実様を大事にするあまり、もっと大事にしなければならないことを粗末に扱ってしまわないように、常に気をつけるべきだろうかと。