逸話篇一二三 人がめどか
船場の初代、梅谷四郎兵衛先生は短気であったと言う人が多いようだが、実はそうではないと聞かせていただいたことがある。逸話篇の一二三「人がめどか」には
明治十六年、折から普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、「大阪の食い詰め左官が、大和三界まで仕事に来て。」との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜、ひそかに荷物を取りまとめて、大阪へもどろうとした。
とある。大阪一の左官職人が、大和の田舎者にバカにされたわけたが、もし私がそう言われたらその場でキレていたのではないかと思う。とりあえずその場はグッと我慢して、夜まで我慢し、誰にキレることなくそっと出ていこうとされたのである。
いろんな先生から話を聞いていると、梅谷先生のことを悪く言ったのは一人ではない。仲間はずれの状態であったそうだ。田舎者の村社会の中に都会からだれかやってくれば、妬みやそねみがあっても不思議ではない。
すでに出来上がっているグループというの、いつも通りにやっていれば良いのだから居心地は良い。メンバーが増えたり変わったりすることで居心地の良さが失われることを恐れるのだろう。
友達同士ならそれでよいわけだが、教えを広めることを目的としている集団がそうあってはならない。自分たちだけが楽しむようなことになっていないか気をつけていかなければならない。