逸話篇一九 子供が羽を

おつとめは真剣に勤めさせていただくべきである。ふざけて勤めるべきではないというのは、おそらく誰もが同意することであろう。しかし、真剣に勤めているのかどうかというのは、自分でしか分からないのだから、他人のことをとやかくいうべきではない。ひながたはどうなのかというと、逸話編の19「子供が羽根を」に、こう書かれている。
教祖は、お手振りして教えてくだされました。そうしてこちらが違うても、言うて下さりません。「恥かかすようなものや。」と、仰ったそうです。

大事なおてふりを間違えても指摘されなかった。ひながたでは、指摘されなかったのが事実である。

私の所属する教会の月次祭は、おつとめを上手に勤めているとは言えない。というか、下手くそだ。音楽を勉強したことのない私が聞いても下手くそだ。しかし、何十年も欠かさず通ってくださっている方が、少しずつだがいろいろなことができるようになってきている。「私はちゃんぽん専門」と仰っておられたが、自分なりに練習をして拍子木も太鼓も叩けるようになった。おやさまがご覧になって喜んでくださっているだろうなと思う。

音楽に長けた人が教会のおつとめを嫌うという話はよく聞く。地方が間違っているとか、太鼓のリズムがずれているだとか、そういったことを言う人は多い。「この教会のおつとめは聞けたものではない」などと言うそうだが。

正しいおつとめというのがどういうものなのか、それは神様にしか分からないわけであって、西洋音楽を基準にすれば間違っているかもしれないが、真剣に勤めていれば神様は喜んでくださるだろう。自分なりにいろいろ悩みながら、神様に喜んでいただけるおつとめがどんなものなのか模索していくのは良いことだろうし、そのための予備知識として音楽を勉強するのは良いことかもしれないが、それを他人に押し付けるべきではないだろう。

音程が外れたりリズムが狂ったりすることによって御守護がなくなったり欠けたりするのであれば音楽をもっと勉強しなければならないが、それなら我々は信仰する前に音楽を勉強しなければならなくなる。おたすけどころではなくなってしまいそうだ。

もちろんだが、お教えくださったおつとめを守っていくとか、あるいは研究していくとか、そういうことも必要だが、全員がしなければならないものでもないだろう。今のところは、御本部の先生方がきちんとしてくれているのだから、末端のようぼくは気にしなくても良い、というと無責任かもしれない。やはり何事も我が事ととらえて取り組むべきであろうが、それで埃を積みすぎるのなら、今はやめておいたほうが良いだろうと思う。

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