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人間をはじめかけた証拠だから

おふでさきの第十七号九番のおうたに にんけんをはじめかけたるしよこふに かんろふたいをすゑておくぞや とある。現代日本語にすれば、「人間を始めけけたる証拠に甘露台を据えておくぞや」となる。人間を始めかけた証拠として甘露台を据えておくということだが、何が証拠になるのだろうかと、そんなことを昔から考えていた。 ふと思い出したのが師匠の言葉だ。「この道は証拠信心だ」とよく仰っていた。その意味は師匠がおっしゃるには、この道は本物の神様が教えてくださったのだから、その証拠を必ずお示しくださる。この教えは本当の教えだという証拠を神様から与えてくださったからこそ、先人はこの道を真剣に通ってこられたのだと。 証拠というのは、本当の神様である証拠であり、神様の仰っていることが本当であるという証拠であって、それは何らかの具体的な現象として現れるものであると、昔はそんな意味で使われていたのだろう。 おたすけにかかったとき、わざわざ御本部の神殿まで行き、甘露台の前で願うわけだが、それで御守護を頂いたという経験は誰もが持っていると思う。甘露台に向かって願えば御守護をいただける、ということは当たり前のようであるが、それが甘露台が人間を始めだした場所であることの証拠であるということなのだろう。

余れば返す、足らねば貰う

余れば返す、足らねば貰う、という言葉をどこかで聞いて、どこで聞いたのかを忘れていた。忘れたという話を友人に言ったことがあったそうだが、言ったことを私は忘れていて、少し前に、それを覚えていてくれた友人がどこに書いてあるのかを教えてくれた。明治二十年一月十三日のおさしづだ。 理は見えねど、皆帳面に付けてあるも同じ事、月々年々、余れば返す、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。 とある。「足らねば貰う」か恐ろしいな。余るくらい尽くしておくほうが安心だ。

月次祭のおつとめと諸々

月次祭のメインは、やはりおつとめである。おつとめを勤めるために月次祭があると言っても言い過ぎではない。しかし、おつとめだけではもったいないと思う。 ある教会では、会長さんが月次祭の準備をすべてする。「信者さん」と呼ばれる人たちは、時間になると教会へやってくる。そして、おつとめ着に着替えて、おつとめを勤める。直会が始まると、ご飯を食べ、食べ終わった人から帰っていくそうだ。準備や片付けは、会長さんがすべてやるとのこと。会長さんが徳を積む教会だ。 もちろんだが、おつとめは大事だ。おつとめだけでも参拝させてもらいたいと、ない時間を割いて毎月来るのは誠真実だろう。あるいは、どうしても仕事の都合をつけられないからと、仕事を終えてから参拝に来るのも誠真実だろう。 そう断った上で敢えて言うが、せっかく月次祭の日に教会へ行くのなら、参拝するだけではなくて、何か一つでもひのきしんをさせてもらったほうがよい。 月次祭のおつとめを勤めるためにしなければならないことはたくさんある。神床や参拝場の掃除から始まり、鳴物やその他の祭具の掃除、神饌の準備、片付けなど、祭典に直接関係することはもちろん必要だし、祭典のための事務的な手続きからお金の準備まで必要なことはたくさんある。それらの一つ一つは、おつとめを勤めるのと同じくらい大事だ。 あまりでしゃばりすぎてはダメだが、せっかくなので祭典に必要なことを一つでもさせていただいて、少しでも徳を積ませてもらうほうべきだろう。

天理教でたすかりたいのなら

天理教にたすけを求めて駆け込むのなら、「たすけてください」と言うよりも、「神様の話を聞かせてください」と言うか、あるいは「神様のもとへ行かせてください」と言ったほうが良い。 おたすけについて教えてくださった私の師匠は、多くの人からおたすけ名人と呼ばれている。「癌くらいなら、すぐにたすけてくれるよ」とよく言っているし、実際に多くの人をたすけている。が、どうやったらたすかるのか、あるいはたすけることができるのかと尋ねてみても、「神様がたすけてくださる」としか答えてくれない。最初は、なぜ教えてくれないのかと不満に思ったのだが、おそらく師匠も分からないのだろう、ということが分かってきた。 「天理教は分かるもんじゃないよ。」と、関根豊松先生が仰っていたそうだ。ある師匠から教えていただいた。信仰すればするほど天理教は分からなくなると、そんなことも仰ってた。 天理教の教会にたすけを求めてくる人は、今でもたくさんいる。もちろんだが身の上話はきちんと聴くし、アドバイスできることはさせてもらう。手伝えることは手伝わせてもらう。しかし、根本的にはたすけるのは天理教の人間ではなくて神様である。ここを間違えてはならない。 私も少ないながら「おたすけ」と呼べるようなことはしているが、どの人も勝手にたすかっていくように思う。私は神様の話をさせていただいて、おつとめを一緒につとめさせていただいて、一緒に布教に出させていただく。そうこうしているうちに、勝手にたすかっていくのだから不思議だ。 人間がたすけるのではなくて神様がたすけてくださるのだから、まずは神様のもとへ行って神様の話を聞かせてもらうべきだろう。 さて、明日の祭典に備えて、ひのきしんをさせてもらいに行こうかと。

天理教がヤバいかどうか

天理教って大丈夫?と聞かれることがある。天理教がヤバい宗教だとか書かれたウェブサイトを読んだのだろう。 天理教がヤバイのかどうかと問われると、ヤバい人がいるかもしれないとしか答えようがない。天理教を信仰している人すべてと友達になることができるのなら何か答えられるかもしれないが、それには数が多すぎる。 天理教と言っても、やっいていることは人にってかなり違う。それは他の宗教もそうなのではないかと思う。例えば、仏教と言っても、宗派によってかなり違いがある。キリスト教と言っても、ずいぶん違いはあるだろう。 天理教の教会は、一応のところは教会本部に包括されているから同じようなものに見えるかもしれないが、そうではない。私の住んでいるところの近くにいくつも教会があって、そこの会長さんくらいは知っているが、細かいことは何も知らない。 系統によって異なると言う人もいるが、そうとも限らない。例えば、私に御教理を教えてくれたのは他の系統の先生だし、おたすけの仕方を教えてくれたのも、また別の系統の先生だ。 教理として学ぶことは、おそらく同じだろうし、普通に教理を実践していれば、悪いことはしないはずだ。少なくとも私の周りには、悪いことをする人はいないと思う。が、まあ、人間のやることはわからない。教理を利用して自分の利益になることしかしないような人がいるかもしれない。 付き合う人は自分で見極めなければならないいうことを、わざわざ私が言うのもおかしいが、世の中そんなもんだ。 自分の周りにヤバい人がよってくるとしたら、それは自分の魂の問題なのだから、天理教がヤバいかどうかよりも、自分の魂の因縁がヤバいのかどうかを考えたほうが良いと、私は思う。

すべて気の長い話

人間はせっかちだから、すぐに御守護をいただきたくなるのだが、神様は気が長い。例えば教典には、 誰が来ても神は退かぬ。今は種々と心配するは無理でないけれど、二十年三十年経ったなれば、皆の者成程と思う日が来る程に。 とある。天理教の信仰とは二十年も三十年もかかる気の長い話だ。寿命が何千年もあるのなら二十年や三十年くらいと思うかもしれないが、人間の寿命を考えれば、短い時間ではない。 まあ、しかし、時間はかかるとはいっても、普通に信仰していれば危ない中もつれて通ってくださるんだから、細かいことは気にせず気長に続けていれば良いかと。

一番大切なこと

元の理の冒頭に、  この世の元初りは、どろ海であつた。  月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。 とある。文書を作成するときやお話の原稿を書くときには、一番大切なことを最初に書くのが普通だ。まあ、人間の集中力なんてものは最初の数分くらいしかもたないのだから、一番大切なことを最初に言っておかないと伝わらない。集中力が切れてるときに、素晴らしい話をいくら聞いても、頭に入ってこないだろう。と、そういう技術的なことを開設してもここでは意味はないのでやめることにするが、なにしろ一番大事なことはこの部分だと私は思う。 人間が陽気ぐらしをするのを見てともに楽しもうと思いた、というのが人間創造の目的である。「ともに」とあるは、人間が楽しむのを見て神様も楽しむという意味だ。 教典と教祖伝の冒頭には、 我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降つた。みきを神のやしろに貰い受けたい とある。「世界一れつをたすけるため」と、立教の目的を述べられている。 神様は陽気ぐらしをさせるために人間をお造りになったのだから、すべての人間は「普通」の状態で陽気ぐらしができるのである。それにもかかわらず苦しんだり悩んだりしている人間をたすけるために天理教が始まったのである。 誤解を恐れずに分かりやすく言えば、人間は幸せになるために造られたのであって、その方法を伝えるために天理教がある。これが一番大事なことだと私は思う。それを知らなければつまらない信仰になってしまうだろう。 例えば、「私は因縁が悪いから信仰しなければならないんです。」などという言葉を聞くことがある。因縁に追われて信仰しているようなものだ。まあ、その考え方はそれぞれの自由だから否定しない。しかし、因縁が悪いから永遠に不幸に暮らさなければならないと思う必要はない。因縁は切ることができる。神様は因縁を切る方法をいくつも教えてくださっている。それを教えるのも立教の目的の一つだ。 因縁を切ればどうなるのだろうか?それを知らずに努力し続けるのは、目的地が分からずに走り続けているようで心許ない。因縁を切れば、魂は「普通」の状態に戻るわけで、つまり陽気ぐらしができるのである。因縁を切ることが目的...

年賀状の季節だ

年賀状を作る季節がやってきた。自教会にいれば設備は整っているが、外に出ることが多くなったのでパソコンを一台買うことにした。買うときに決めていることは、すべて満足できるものか、それとも一番安いものかのどちらかだ。 中途半端に優れているものを買うと、スペックが少し悪い部分があると不足になる。それなら妥協せずに必要なものを買うか、それとも低スペックであることを認めたうえで一番安いものを買うかのどちらかが良いと思う。 今回は安いほうを買うことにした。7000円ちょっとだ。年賀状を作るのに必要なものだけインストールしようと思った。凝った年賀状を作る必要はないから、今回はLibreOfficeとGoogleChromeだけインストールした。 LibreOfficeは無料なのに、十分な機能がある。多少のバグはあるが、まあ、それは何とかこちら側が対応していけばよい。無料なのだから、それくらいはするべきだろう。嫌なら高いお金を払ってMicrosoftOfficeを買えば良い。 LibreOfficeがあれば差し込み印刷ができる。去年に作った宛名のデータをそのまま使える。やりかたはググればでてくるから、覚えている必要もない。 GoogleChromeは、別にインストールする必要がないといえばないのだが、Googleのサービスを利用するのには便利だからインストールした。 当面はこれだけで十分だ。7,000円台のパソコンに多くは求めるつもりはない。が、使ってみると快適だ。ちなみにスペックは、Core i5、RAM4GBで、これは満足しているが、ストレージがSSDの30GBであるという点は少し不安だ。が、まあ、しばらくこれで行こうかと。

「においがけ」と「おたすけ」の区別は難しい

「においがけに行って来ます」と言えば、戸別訪問や神名流し、路傍講演などをしにいくという意味になるわけで、これは便宜上、そういう意味の言葉とし「においがけ」と言っているわけたが、実際ににおいがけをするのは人間ではない。おさしづに、 どんな処にをい掛かるも神が働くから掛かる。 とある。 においがけの主体は神様であって、人間が頑張ってどうにかなるものではない。おたすけも同じで、具体的には神様の話を取り次いでおさづけを取り次ぎ、お願いづとめをするくらいのことしか人間にはできない。たすける主体は神様だ。 においがけのつもりで戸別訪問をして神様の話をさせていただいただけでたすかる人もいる。そのときはたすからなくても、後になってたすかることもある。 10年以上も前に教会で話を聞いたことがあるという人に、天理教でたすけてほしいと言われたことがある。結果として大きな御守護をいただいたわけだが、それは私だけの手柄ではない。最初に話を取り次いだ先生がいなければ、その人はたすからなかっただろう。そう考えれば、神様が10年以上の時間をかけておたすけくださったわけで、その一連の中でにおいがけがあったわけだから、どこまでがにおいがけで、どこからがおたすけかという区別はできない。 強いて言うのなら、においがけというのは、すでにおたすけをしていることになるわけだ。そう考えれば、パンフレットを配っているだけで大きな御守護をいただく人がいるのも納得できる。

天理教をするとは

天理教をやっていれば、大体のことは何とかなるとは思っている。と、そんな話をしていたときに、「天理教をやるっていうのは、何をすることなの?」と聞かれたことがある。 もちろんだが、同じことをしていても、めんどくさいなあと思ってやっているのと、ありがたいなあと思ってやっているのとでは大きな違いがあるというのは当然のことだと断っておかなければならないが、天理教の人間がやることと言えばおつとめ、ひのきしん、においがけおたすけの3つしかない。 どれも、自分のためではなく、神様のため、人様のためにさせていただく行為だ。自分のために何をしても神様が喜んでくださるわけはない。何をするにも我が身のことは考えず、神様に喜んでもらえるよう、人様に喜んでもらえるようように心がけていくべきであって、そのためにひながたを学んだり、先人の話を聴いたりすることが必要になる場合もある。が、行動することのほうが大事だろう。

おふでさきを覚えようとしてやめた

おふでさきを暗記しようとしたことがある。若気の至りだ。ある師匠はほとんど覚えていると仰っていた。頑張って覚えたのではなく、拝読しているうちに覚えてしまったそうだ。 ふと思い出して覚え直してみようかと一瞬だけ思ったのだが、やっぱりやめた。おさしづに「忘れるからふでさきに知らし置いた」とあるのを思い出してやめた。 人間が書き残したものならいずれなくなってしまうかもしれないから覚えておかなければならないが、人間が忘れてしまうことを前提として書かれたものを、神様が残さないはずがない。 まあしかし、覚えてしまいそうになるくらい拝読させてもらおうとは思う。

成ってくるのが天の理

成ってくるのが天の理 誰が言い出したのか分からないが、多くの人が知っている言葉だ。おさしづを検索しても出てこないし、おやさまが仰ったと記述された資料は、今のところ見たことはない。おそらく先人の先生が言い出して、それが広まったのだろう。 この言葉は、積極的な意味で使われ始めたのだと思うが、消極的な意味で使う人が多いように思う。何か都合の悪いことが起こったときに、自分としては納得できなかったとしても、そうなってくるのも親心(=天の理)であるのだから喜ばせてもらわなければならない、そういう使われ方が多いように思う。 「なる」という言葉は、漢字で書けば「成る」なのだが、この言葉はほとんどの場合「良くなる」の意味で使われる。「成るも因縁成らんも因縁」は、「良くなるのも因縁のなせることであり、良くならないのも因縁のなせることである。」という意味だ。 淡白に考えれば、成ってくるのが天の理は、「良くなってくるのは神様の親心からである」とか、「神様のご苦労のおかげで良くなってくる」とかいう意味になるが、もっと積極的に解釈するのなら、良くなるためには天の理を積め、とも考えられる。 解釈はそれぞれが勝手にすれば良いのだし、そもそも神様の言葉ではないのだからどうでも良いことだが、まあ、悪いことが起こったときに、その現実から逃れるための言葉ではないように思う。 良くなってこないのなら、もっと天の理をいただかなきゃ。