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理を立てていれば良い

逸話篇の七四より 逸話篇の七四より 人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。 「人生とは選択の連続である」と言ったのは、確かシェイクスピアだったと思うが、彼らはいつも難しい選択ばかりで大変だ。 この道を歩む我々は、迷ったときには理の立つ方を選んでおけば良いのだから、ほとんど何も考えずに済む。 何ともありがたいことだ。 人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。 「人生とは選択の連続である」と言ったのは、確かシェイクスピアだったと思うが、彼らはいつも難しい選択ばかりで大変だ。 この道を歩む我々は、迷ったときには理の立つ方を選んでおけば良いのだから、ほとんど何も考えずに済む。 何ともありがたいことだ。

前生因縁のさんげはたんのうだけではない

「たんのうは前生いんねんのさんげ」という言葉はあまりにも有名なのだが、たんのうして通るだけなら、何も天理教を信仰する必要はない。どんなことが起こっても、それを前向きに捉えて受け止めるというのなら、世間で言うプラス思考と何も代わりはない。因縁ということを理解することで、不都合なことが起こった時に、「これがさんげになる」と考えれば、ただそれを受け入れやすくなるだけのことだろう。 「たんのうは前生いんねんのさんげ」だが、前生いんねんのさんげはたんのうだけではない。「人助けたら我が身助かる」というのだから、たんのうを中心において守りの信仰をするよりも、おたすけを中心において攻めの信仰をするほうが、因縁納消の道を通りやすいのではないかと。

USBメモリからChromeOSを起動

事務所のパソコンなんて誰が使っているか分からない。ウイルスに感染したファイルを削除したという記録が、セキュリティソフトのログに残っていた。セキュリティソフトが反応したのだからこのパソコンは大丈夫だろうとは思うが、それでもプライベートな内容を扱うのは恐ろしい。かと言って使える状態にしなければならないし…。 いろいろ悩んだ末、USBメモリにChromeOSをインストールして起動することにした。せっかくやり方が分かったので、ここにメモしておこうかと。ブートディスクを作成したパソコンはLenovoのWindows10だ。 するべきことは大きく分けて3つ。ディスクイメージのダウンロード、USBメモリにインストール、BIOSの設定だ。 ディスクイメージのダウンロードは以下のサイトから。 http://chromium.arnoldthebat.co.uk 「daily」にアクスして、パソコンのプロセッサーにあったイメージファイルをダウンロードする。わからなければ順番に試せば良い。ファイル名が「Cx86…」、「CARM…」、「Camd…」のものの3種類あるから、最新版をインストールすると仮定すれば、3回試せばどれかがヒットするはず。 イメージファイルは7z形式で圧縮されているのだが、Windows10ではデフォルトでは解凍できないので、解凍ソフトをインストールしなければならない。「7z」でググればいくつか見つかるだろう。私が使ったのは7-zip。 http://sevenzip.sourceforge.jp/ 解凍したイメージファイルをUSBメモリにインストールするには、専用のソフトが必要。私が使ったのはWin32 Disk Imager。 http://sourceforge.net/projects/win32diskimager/files/Archive/ ダウンロードしたファイルで起動ディスクを作れば、次はBIOSを設定する。BIOSの設定をする方法は機種によって異なる。「機種名 BIOS」でググれば見つかるはず。私の使っているパソコンでは、起動直後F2キーを押し続けることでBIOSの設定画面に入れた。F8キー、F12キーで起動する機種もある。 起動順位を変更してUSBメモリをハードディスクよりも先に持ってくれば良い。英語が少...

その場の楽しみをして

食えない苦労、寒くて眠れない苦労をしなければおさづけが効かないと、ある先生から教えていただいた。こうのうを得るために必要なことは難儀不自由、艱難苦労であると、おさしづのいろいろなところに書かれてある。 得られたこうのうはなくならないものなのかと思っていたが、そうでもないようだ。明治22年3月21日のおさしづに、 その場の楽しみをして、人間というものはどうもならん。楽しみてどうもならん。その場は通る。なれども何にもこうのう無くしては、どうもならん事に成りてはどうもならん。 とある。神様は「その場の楽しみ」を戒めておられる。 詰所の勤務をしながら他のことも色々とやっていると、忙しいし十分に寝ることもできないのだが、勤務そのものは楽しい。こんなことではダメだ。もっと苦労しなければ。

何処からでも芽を吹く

においがけおたすけを一所懸命やっていれば、どこかで必ず芽が出ると、多くの布教師の先生方が仰る。「東で撒いた種が西で生え…」というのは、有名なフレーズだ。 少し布教の真似事をした私でも、それくらいのことは神様が見せて下さる。教理は本で学ぶものではなく、おたすけの中で体験するべきものだと、そんなことも実績のある多くの先生方が仰るのだから、わざわざ原典に根拠を求める必要もないだろうと思っているつもりだった。 が、おさしづを読んでいて見つけてしまった。根拠など必要ないと思っているつもりだったのだが、どこかに少しだけ不安が残っていたのだろう。 せっかく見つけたので引用しておこうかと。明治三十年五月二十一日のおさしづだ。 道のためあちらへもこちらへも種を下ろし、道のために尽したなら、何処からでも芽を吹く。又、道のため一つの理あれば、見て居る者は無い。所々種を下ろして、世界からうっとしい理も無くばならん。一時の処はどうなろ。めん/\一つの理に持って、あちらへもこちらへも種を蒔く。あちら不作でも、こちらは十分取れる。こちらから還る、お前は放って置かれんという理は、何処に放って置かれん。一代限りじゃなあと思えば蒔き流し、一時もう理をよう聞き分け。一つの理は為すいんねん諭しの理に籠ってあると諭し、前々蒔いたる理何処へでも生える。これだけ諭したら、真も定まるであろ。よう聞き取ってくれ。

包んで居ては真実真の事とは言わん

言うべきか言わざるべきかと悩むことが多い。自分の癖性分でそう思っているのなら言うべきではないし、その環境でたんのうすることを神様が望んでおられるかも知れないと常々考えなければならない。すべては親心で、その親心を否定することなく、たんのうすることは大事だ。 だから、誰が何をしても、ただ黙っていれば良いのだと、そんなことを思っていたのだが、どうも違うようだ。明治三十一年十一月三日のおさしづに、 何ぼどういう事を言うたて、言うのが悪いなあ、言うてはいかんなあ。包んで居ては真実真の事とは言わん。我が身捨てゝも構わん。身を捨てゝもという精神持って働くなら、神が働く、という理を、精神一つの理に授けよう。 言うと嫌われるかも知れないと気を使って言わないのが普通の人間だが、「包んで居ては真実真の事とは言わん。」と神様は仰る。難しいことだが、神様がそう仰るのなら、そうするべきだろう。

何から何まで

逸話篇には日々の通り方が具体的に書かれていて分かりやすい。 四六 何から何まで  ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司が、増井りんに、「それを料理するように。」と、言い付けた。りんは、出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おりんさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理しておくれ。」 と言った。出刃はなかったのである。  りんは、余りのことと思ったので、ある日お暇を願うて、河内へもどった。ちょうど、その日は、八尾のお逮夜であったので、早速、八尾へ出かけて、出刃庖丁と薄い刺身庖丁と鋏など、一揃い買うて来て、お屋敷へ帰り、お土産に差し上げた。秀司もまつゑも大層喜んで、秀司は、「こんな結構なもの、お祖母様に見せる。一しょにおいで。」 と促した。 教祖にお目にかかって、留守にしたお礼を、申し上げると、教祖は、それをお頂きになって、  「おりんさん、何から何まで、気を付けてくれたのやなあ。有難いなあ。」  と、仰せになって、お喜び下された。りんは、余りの勿体なさに、畳に額をすり付けて、むせび泣いた、という。 一昨日、ある青年が詰所に無線LANのアクセスポイントを設置してくれた。おかげでWi-Fiの電波の届く範囲が広がって便利になった。 わざわざ電気屋街へ行って機器を購入し、わざわざ詰所までやってきて設定をして帰って行った。「何から何まで」だ。だから彼は神様から好かれているのだろう。 以前に大教会のネットワーク環境を整備したときのことだが、その作業をしている時に、たまたまそこにいた会計の先生が声をかけてくださった。そして、機器の代金を大教会に請求するようにと言ってくださった。それに甘えて代金を請求した自分を恥ずかしく思う。一度は断ったのだが…、という言い訳は通らないだろう。 教えを頭にいれるのは大学受験の英単語を覚えるよりも遥かに簡単なのだが、それを常々実行するのは難しいと、いつも思う。

天が見通し

名前出さいでも、天が見通しという理聞き分け。 どれだけ隅に居ても蔭に居ても、天が見通しという。 人がどう言うこう言うても、天が見通し。 めん/\それ/\心と心、天が見通しである。 わざわざ書く必要もないことだろうが、手元にある資料を開いたときに目に止まったので、せっかくなので書いておこうかと。

いくら信心しても苦労ばかり

 明治八年夏の頃、永年、教祖と艱難苦労を共にしたこかんが身上障りとなり、容体は次第に重くなった。   : 魂のいんねんにより、親神は、こかんを、いつ/\迄も元のやしきに置いて、神一条の任に就かせようと思召されて居た。しかし、人間の目から見れば、一人の女性である。人々が、縁付くようにと勧めたのも、無理はなかった。こかんは、この理と情との間に悩んだ。  第十一号前半から中頃に亙り、この身上の障りを台として、人間思案に流れる事なく、どこ/\迄も親神の言葉に添い切り、親神に凭れ切って通り抜けよ、と懇々と諭されて居る。   : 身上に徴をつけ、筆に誌して、元の親里につとめ人衆として引き寄せた、元のいんねんある人々を仕込み、たすけ一条の根本の道たるかんろだいのつとめの完成を急がれた。   :  九月二十七日(陰暦八月二十八日)、こかんが三十九歳で出直した。この報せに、御苦労中の教祖は、特別に許可を受けて、人力車で帰られると、直ぐ、冷くなったこかんの遺骸を撫でて、 「可愛相に。早く帰っておいで。」 と、優しく犒われた。 天理教の歴史の中で、神様から高い期待をかけられた最初の人間がこかん様ではないだろうか。おふでさきには、 このものに月日よろづのしこみする それでめづらしたすけするのや とある。「このもの」とはこかん様のことだ。「よろづのしこみ」をすると仰るくらい期待のかけられていたこかん様に対して、神様は少しの人間思案もお許しにならなかった。 信仰が進めば精神的にも物質的にも楽になっていくというのが、普通の宗教に対する考え方だろう。しかし、天理教は成人すればするほど苦労しなければならない。神様から期待されている人間は、心が少しブレただけで厳しいお手入れを頂く。成人すればするほど、人間的な生き方はできなくなる。こんなふうに師匠が仰っていたのを思い出した。 いくら信心しても苦労ばかりしている人は、おそらく神様からの期待が大きいのだろう。高々十年ほど信仰しただけで、これだけ楽な生活を送っていることを、少し恥ずかしく思う。

その心を供えるのや

逸話篇の「真心の御供」を引用させてもらう。 中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮に、一人の 信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下 さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目 にかけた。 すると、教祖は、いつになく、 「ああ、そうかえ。」 と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。 それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗 末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうござ います。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡 餅が入っていた。 例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、 「直ぐに、親神様にお供えしておくれ。」 と、非常に御満足の体であらせられた。 これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、 正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言う て持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっと のことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。 何は措いてもお初を。」というので、その搗き立てのところを取って、 持って来たのであった。 教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになってい たのである。 こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍し いものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るように なったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるの が常であった。 そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にす すめられて、たといそれをお召し上がりになっても、 「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」 と、仰せられた。 「正月の餅を搗いて余ったので」という気持ちでは、神様は受け取ってくださらない。が、人間はこんな心を使ってしまいがちだ。 例えば、自分の家で使わなくなったものであっても、教会に持っていけば喜んで使ってくれることがある。が、これは余ったから持っていっているのと同じで、神様は受け取ってくださらない。わざわざ徳を落としているようなものだ。 時間も同じ。おやさまの口伝に「ああもしたい、こうもしたいと思う心もあるやろ、その心を供えるのや。」とある。自分のやりた...

種があればこそ

おさしづを読んでいると、泣きそうになることがある。明治24年1月28日のおさしづに、 一年で蒔いた種が、一年で生える。二年で蒔いた種が、二年で生えるのもある。又蒔いた種が生えんのもある。なれど一旦蒔いたる種は、どうでもこうでも生やさにゃならん。生えんという理は無い。どんな事も談示したとて、聞く者は無い。残念。相談する人も無し、掛かり掛けた道どうなろうと、残念々々の道も越して来た。涙をこぼして越した日もある。種を蒔いたから今日の日や。広い地所があっても種を蒔かねば草山や。草山は草山の値打ち。種があればこそ、修理がある。修理がしたならこそ今日の日や。これをよう聞き分けてくれ。 涙を流しながらでも種をまかなければ。    

AndroidとChromebookの組み合わせが最強

コンピュータは、生活になくてはならないものになってしまった。記憶力の悪い私は、スケジュールや連絡先、仕事に使うデータを、いつもコンピュータに記憶してもらっている。Windows98のころから、PalmOSを搭載した電子手帳とパソコンを同期させて、頭の悪い私の生活を、いつも助けてもらってた。 今も助けてもらっている。何が一番使いやすいのかといろいろ試しているうちに、パソコンが増えてきた。現在、私の目の前にあるのは、Windows10とChromebookのノートパソコンとDebianのデスクトップ、そしてAndroidのスマホだ。いろいろ試した結果、ChromebookとAndroidを普段の生活に使って、プログラミングなどの特殊な作業をするときにはWindows10を使っている。とにかく、Googleのサービスが便利だ。 スマホとしてAndroidを選んだのは、単に安いからだ。もともとMacユーザーだった私はiPhoneを使いたかったのだが、以前は価格が高すぎた。Windowsのスマホは、登場が少し遅かった。Androidを使う前はWindowsCEを日常的に使っていたから、もしも必要なタイミングでWindowsのスマホが登場していれば、そちらを買っていただろう。 Chromebookを買った理由も安かったからだ。プログラミングやデザインの仕事をしていた時はWindowsがメインだったのだが、ライターの仕事をするようになってからWindowsである必要はなくなった。日本語変換に不安があったのでChromebookが登場した当初は敬遠していたのだが、メインとして使っているWindowsが壊れたときに、とにかく安くてすぐに手に入るノートパソコンがないものかと探していたら、2万円ちょっとのChromebookを見つけて、これくらい安ければ試してみる価値はあるだろうと思って買うことにした。 ChromebookとAndroidの組み合わせは最強だと今のところは思っている。パソコンの設定をいじって高速化したり、自分好みにしたりするのは楽しい。しかし、それには時間もお金もかかるし、それで稼げるわけではない。コンピュータの専門家として生きていくのならそれくらいのことはしなければならないだろうが、私のような一般人にとって、コンピュータは道具でしかない。それなら使いや...

用いねば反対同様

内務省秘密訓令が発布されたときのおさしづを、ふと思い出した。確か、おぢばで習ったことがある。 反対する者も可愛我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。 「念ずる」がどういう意味なのか、あるいは「用いる」が具体的に何をすべきなのかというところに議論の余地はあるわけだが、ざっくり言えば、「頭で考えているだけ、あるいは口で言っているだけで何もしなければ、反対しているのと同じだ」という意味だ。 天理教の教えを勉強するのは楽しいし、まだまだ新しい発見もあって、つい時間を忘れて没頭してしまうのだが、そんなことをしていても「反対同様のもの」でしかないのだろう。

ChromebookがGoogleアカウントから強制ログアウトされたみたい

Chromebookを起動していつも通りログインしようとすると、二段階認証の手続きが始まった。もしや乗っ取られたのかと思ったが、二段階認証を設定しているのだから大丈夫だろうと思ってググってみた。 同じような現象が起こっているそうだ。Androidスマホでも同じような現象が起こっているそうだが、私のZenfone5では何も起こらなかった。原因は不明だそうだ。セキュリティに問題はないそうだが、一応、ログイン履歴を確認しておくべきだろう。 確認の仕方は簡単で、 https://myaccount.google.com/device-activity にアクセスすれば良い。アクセスすれば、ログインしている端末が表示されるはずだ。知らない端末からのアクセスがなければ問題はない。 今回は大丈夫だと思うが、念のために。

神様を試す

次に何をすべきか、どう生きていけばよいのかと悩んでいるとき、ある先生から「神様を試せば良い」と言葉を頂いた。 神様を試すというのは、失礼極まりない行いであると今まで思っていたのだが、そう言えばそんな話も逸話編に載っていたことを思い出した。 逸話篇一二「肥のさづけ」 教祖は、山中忠七に、 「神の道について来るには、百姓すれば十分に肥も置き難くかろう。」 とて、忠七に、肥のさづけをお渡し下され、 「肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実が効くのやで。」 と、お諭しになり、 「嘘か真か、試してみなされ。」 と、仰せになった。 忠七は、早速、二枚の田で、一方は十分に肥料を置き、他方は肥のさづけの肥だけをして、その結果を待つ事にした。 やがて八月が過ぎ九月も終りとなった。肥料を置いた田は、青々と稲穂が茂って、十分、秋の稔りの豊かさを思わしめた。が、これに反して、肥のさづけの肥だけの田の方は、稲穂の背が低く、色も何んだか少々赤みを帯びて、元気がないように見えた。 忠七は、「やっぱりさづけよりは、肥料の方が効くようだ。」と、疑わざるを得なかった。 ところが、秋の収穫時になってみると、肥料をした方の田の稲穂には、蟲が付いたり空穂があったりしているのに反し、さづけの方の田の稲穂は、背こそ少々低く思われたが、蟲穂や空穂は少しもなく、結局実収の上からみれば、確かに、前者よりもすぐれていることが発見された。 おやさまは「嘘か真か、試してみなされ。」と、試すことお許しになっている。私くらい信心のできていない者なら、少しくらい試しても神様は許してくださるのだろう。 神様は「出るや否や危なき怖き所でも守護するで通れる。」や、「後とも知れず先とも知れず、天より神がしっかりと踏ん張りてやる程に。」と、布教師を守ってくださると仰る。これが本当なのか、試してみる価値はあるかと。

天然自然の道は優しい道ではない

おさしづに「天然自然」という言葉が出てくる。言葉の響きは優しいが、内容は非常に厳しい。例えば、 この道の掛かりは、先ず一代という、どうでもこうでも不自由難儀の道通らにゃならん。不自由の道通るは天然自然の道という。神の望む処である。 他にも、 心だけという、心に働き、心にどれだけ言い聞かした処が、皆んな心から苦しみ通る理は、天然自然の道という。どうでもこうでも、艱難不自由通りてくれるは、一代の道の台と言う。 とある。天然自然の道は難儀不自由であり、艱難不自由なのである。これを神様は望んでおられる。これが天然自然なのであれば、一代はとにかく苦労しなければならないということだろう。しかし、その後は天然自然で成ってくるのだから心配いらない。