その心を供えるのや

逸話篇の「真心の御供」を引用させてもらう。
中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮に、一人の 信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下 さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目 にかけた。
すると、教祖は、いつになく、
「ああ、そうかえ。」
と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。
それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗 末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうござ います。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡 餅が入っていた。
例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、
「直ぐに、親神様にお供えしておくれ。」
と、非常に御満足の体であらせられた。
これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、 正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言う て持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっと のことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。 何は措いてもお初を。」というので、その搗き立てのところを取って、 持って来たのであった。
教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになってい たのである。
こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍し いものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るように なったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるの が常であった。
そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にす すめられて、たといそれをお召し上がりになっても、
「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」
と、仰せられた。
「正月の餅を搗いて余ったので」という気持ちでは、神様は受け取ってくださらない。が、人間はこんな心を使ってしまいがちだ。

例えば、自分の家で使わなくなったものであっても、教会に持っていけば喜んで使ってくれることがある。が、これは余ったから持っていっているのと同じで、神様は受け取ってくださらない。わざわざ徳を落としているようなものだ。

時間も同じ。おやさまの口伝に「ああもしたい、こうもしたいと思う心もあるやろ、その心を供えるのや。」とある。自分のやりたいことに時間を費やし、余った時間で御用を勤めようと思っても、神様は受け取ってくださらない。

四月から毎日においがけ、おたすけの毎日を送らせていただきたいと思っていたが、状況が許さないようだ。今すべきことを精一杯するしかないかと。








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