何処からでも芽を吹く

においがけおたすけを一所懸命やっていれば、どこかで必ず芽が出ると、多くの布教師の先生方が仰る。「東で撒いた種が西で生え…」というのは、有名なフレーズだ。

少し布教の真似事をした私でも、それくらいのことは神様が見せて下さる。教理は本で学ぶものではなく、おたすけの中で体験するべきものだと、そんなことも実績のある多くの先生方が仰るのだから、わざわざ原典に根拠を求める必要もないだろうと思っているつもりだった。

が、おさしづを読んでいて見つけてしまった。根拠など必要ないと思っているつもりだったのだが、どこかに少しだけ不安が残っていたのだろう。

せっかく見つけたので引用しておこうかと。明治三十年五月二十一日のおさしづだ。
道のためあちらへもこちらへも種を下ろし、道のために尽したなら、何処からでも芽を吹く。又、道のため一つの理あれば、見て居る者は無い。所々種を下ろして、世界からうっとしい理も無くばならん。一時の処はどうなろ。めん/\一つの理に持って、あちらへもこちらへも種を蒔く。あちら不作でも、こちらは十分取れる。こちらから還る、お前は放って置かれんという理は、何処に放って置かれん。一代限りじゃなあと思えば蒔き流し、一時もう理をよう聞き分け。一つの理は為すいんねん諭しの理に籠ってあると諭し、前々蒔いたる理何処へでも生える。これだけ諭したら、真も定まるであろ。よう聞き取ってくれ。

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