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10月, 2020の投稿を表示しています

ウイルスも必要

世の中はコロナウイルスで大騒ぎだ。神様はなぜこんなことをされるのだろうと思うこともあるが、それは神様の親心を私が理解できないたけのことだろう。 ウイルスは害を及ぼすだけのものだと思われがちだが、そんなことはない。多くの生物の進化に関わってきたそうだ。具体的には、哺乳類の胎盤の形成にはレトロウイルスが大きな役割を果たしてきたことが分かっている。ウイルスというものが存在しなければ、今の人間は存在しないのかもしれない。 もしかすると、コロナウイルスも何か大きな役割を果たしているのかもしれない。これだけ多くの人が感染すれば、いくらかの影響があっても不思議ではない。あのときに人類は進化したんだと、ずっと先に解明されるかも。 などと妄想してみたが、それを知る術はない。神様の親心は大きすぎて、人間が想像することすら難しいのだろう。が、すべては世界一列を救けるためになされること。分からないけれども感謝して通らせていただきたい。

働き損という心は

「末代」という言葉は、家の代という意味で捉えるべきではないだろう。当時は、個人よりも家を大事にする時代だから、そう誤解されて伝わったのも無理はない。しかし、この教えは家を守るための教えではない。個人の魂を救う教えである。 「代」とは、一つの人生を意味する。「末代」は、子や孫やその子孫に至るまで、という意味ではなく、何度生まれ変わっても、という意味で考えるべきであろう。今生で尽くしたことは今生だけのものではなく、来生にも続くものである。 働き損やという心は、更々持たぬよう。思わぬよう。尽した理は、生涯末代。 とある。ありがたいことだ。

味という言葉について

 将棋のテレビ番組をたまに見る。わざわざ見るほど将棋好きではないが、テレビをつけたときに放送していれば見てしまう。棋譜を見ただけで面白いと思えるほど上手くはなくて、解説を聞かなければどこが見どころなのかも分からないくらいの強さだが、まあ、見ていると面白い。 「味の良い一手」という言葉を聞くことがある。味が良いというのはどういう意味かと色んな人に聞いてみたところ、センスがあるとか、面白みがあるとか、後になってから効果が現れてくるとか、そういう答えが返ってきた。 そんなことを思い出しながら拝読をしているときに、「味気なく思し召し」や「心根を味わい」など、元の理には「味」という言葉が結構出てくるなぁと。 元の理を読む限りは、味という言葉は性質や性格、特徴をなどの意味で用いられているように思う。親神様がその性質を見極められ、道具として使われたと言うことであろう。 味がこのような意味で使われているとして、それによって生じるのが「におい」であると考えれば、「においがけ」という言葉についても意味を考え直す必要があるのだろう。

賽銭泥棒のニュース

 賽銭泥棒のニュースが流れていた。賽銭を盗まなければならないのだから、ずいぶん困っていたのだろう。お金があれば何とかなると思ったのかもしれないし、ただその時お金が欲しかっただけなのかもしれない。本人でないと分からないことだ。 本来ならきちんと働きながら、お金に困らないだけの徳を積むべきだろつ。しかし、何が埃で何が埃ではないのかを知らない人にとって、仕方のないことかもしれない。賽銭泥棒をした人にとっては、それが最善の解決策であったのだろう。多くの人にとって「悪いこと」でも、悪いと思わない人もたくさんいる。人間の考え方はみんな違うのだから仕方がない。 見るも因縁。 これが正しいとか、ここまでは許されるだろうとか思っていることであっても、神様の目から見れば違うのかもしれない。気をつけねば。

天理教は神道でも仏教でもない

 天理教は神道なのかと問われると困る。「神」という言葉を用いるから神道の一種だと言われれば、そうであろうかとも思うし、祭具や儀式は神道のものを流用しているから、周りから見れば神道にしか見えないだろう。 教理はオリジナルであり、他の宗教とは違い、宗教を超えた存在だと言うこともできるが、そんなことは他の宗教も言っているわけで、だから神道ではないとは言えない。 とりあえず「神名」なるものはあって、「神」の存在を認めているし、十柱の神名には一般的な神道に登場する神様の名前も出てくるのだから、神道の一部であると考えられやすい。 しかし、神名を唱えるときに、いつも思う。神道なのか仏教なのか、よく分からんなぁと。 南無天理王命(なむてんりおうのみこと) 「南無(なむ)」は、「南無阿弥陀仏」など、仏教で使われる言葉だ。「命(みこと)」は神様に使う敬称のような言葉で、これは浸透で使われる。 言葉を仏教や神道から借りてきてるからややこしい。 天理教の内部にいると、教理がオリジナルだから神道の一部ではないと思うのだが、外から見れば神道にしか見えないのだろう。そういう意味では、神道だと行って良さそうだ。

逸話篇一八四 悟り方

逸話篇の一八四「悟り方」という話がある。最初読んだときに違和感を覚えたのだが、ある先生から教えていただいたことで解決したので、ここに書いておこうと思う。 明治十九年二月六日(陰暦正月三日)、お屋敷へ帰らせて頂いていた梅谷四郎兵衞のもとへ、家から、かねて身上中の二女みちゑがなくなったという報せが届いた。教祖にお目通りした時、話のついでに、その事を申し上げると、教祖は、 「それは結構やなあ。」 と、仰せられた。 梅谷は、教祖が、何かお聞き違いなされたのだろうと思ったので、更に、もう一度、「子供をなくしましたので。」と、申し上げると、教祖は、ただ一言、 「大きい方でのうて、よかったなあ。」と、仰せられた。 梅谷四郎兵衛先生が初めておぢば帰りをされた目的は、兄の病気を救けていただくためであったが、教えの理を聞くにつれて因縁を悟り、因縁を切っていただくために信仰をはじめられたと聞かせていただく。 先生に子供はいるが、男児は三男の梅次郎だけである。長男と次男は出直した。これを、家が途絶える因縁だと悟られたのだろう。先生は入信前、一度は養子に入られたことがある。どのような事情があったのか詳しくは分からないが、その家を出ることとなり、結果としてその家は途絶えてしまうことになる。これは因縁のなすこと、前生から家を倒してきた因縁があるため、男児が育たず、家が倒れることになると悟っておられたのであろう。 「大きい方」とは男児の梅次郎のことである。 子供が出直すというのは、誰にとっても悲しいことであって、もちろんおやさまもご存じであろう。そんな中でも何か喜びを見つけて通るということをお教えくださったのではないだろうか。 当時は「家」が重要視された時代であろうから良いのかもしれないが。

埋没コスト

 埋没コスト、あるいはサンクコストとも言うが、これには気をつけなければならない。埋没コストとは、回収不能なコストを意味する。例えば、ある株に投資をしたが価格が下がってしまい、損失を確定させたとしよう。その損失は、すでに回収不能だ。しかし、人間はその株で負けた分を取り戻したくなる。 しかし、過去にその株で負けたことが、今後の株価の推移にどれくらい影響するだろうか。まったくないとは言えないだろうが大きなお金の動いている相場では誤差に過ぎない。 ある株で負け続け、それでもその株に投資し続けていた場合に、相場の神様が出てきて、「そこまで投資し続けるのなら、少しは儲けさせてやろう」と言ってくれれば良いが、まあ、そんなことはない。負けを取り戻そうとして冷静さを欠き、余計に負けていくのが相場だ。 過去の負けは埋没コストだから取り返すことはできない。 負けても勝っても、過去の勝敗は忘れて、冷静に相場を分析するほうが良い。冷静になれるまで休むべし。

天理教の教会の統合について

 教会の統合、つまりいくつかの教会を一つにまとめる、それによってみんなが勇めるような教会を作ろうという動きが本格化しだした。 今までは、なんとか復興しようという動きであったように思う。設立には多くの人が苦労をされただろうし、現在に至るまでたくさんの人が教会を守ってきたのだから、簡単になくすべきではないだろう、と思うのは、教会に関わる人なら誰でも思うはずだ。 教会を維持することと信仰することは同じではない。教会は、信仰しやすくするためにあるわけであって、教会を維持することが信仰することではない。必死になってものごとに当たっていると、本来の目的を忘れてしまいやすい。 ある教会の息子は、若いときに単独布教を志したが、断念した。教会を維持するために働かなければならないからだ。教会を維持するために信仰を断念するということにもなりかねない。 教会があるおかげで信仰が深まったとか、教会に助けられたとか、そういう人がたくさんいるのならその教会は神様が守ってくださるだろう。しかし、信仰の邪魔になるような教会は、いくら人間が守ろうとしても、守りきれるものではない。 我々の目的は教会を維持することではないのだから、統合することでより多くの人に教えを広められるだとか、より多くの人がたすかるだとか、そういうことであるのなら積極的に統合すべきだろうと思う。

確証バイアス

バイアスとは偏りのことだ。人間が情報を集める際に、自分の考えを支持する情報をより多く集めてしまうことを指す。 例えば、ある企業の株を持っていたとする。それを持ち続けたいと思うときに、その株の価格が上がる理由ばかりを探し、下がる原因になるような情報にを集めたがらない。 常に冷静でいるというのは、人間には難しいことだ。常に中立な立場で情報を集めなければ正しい判断はできないわけだが、それが難しい。 短期売買ではロスカットラインを定めて取引するのが普通だ。持っている株の価格が下がって含み損を抱えているとき、ロスカットラインに達すればとにかく売らなければならない。これは誰もが認めることだろう。 しかし売りたくない。買ったのは上がると予想したからであって、それを売れは、自分の判断が間違っていたことを認めることになる。誰も自分が間違っているとは思いたくはない。ここに情報バイアスがかかる。 含み損を抱えているときに情報を集めるときには注意が必要だ。掲示板などを読みたくなる。ネット上の掲示板は、誰が書いたのかわからないような情報がたくさんある。それらを読んでいると、今持っている株が上がる根拠ばかりが目につく。 「今は含み損を抱えているけれども、ファンダメンタルズがしっかりしているから大丈夫だ」と思えるような情報が目についたり、「そもそもロスカットラインなど定めなくて良い」というような記事が目についたりする。 自分のしていることをいかに正当化できたとしても、相場はそんなこととは関係なく動く。相場は冷静で残酷だ。ロスカットできなくても、株価は下がり、含み損は膨らんでいく。こんなことを続けていれば、すぐにゲームオーバーだ。 常に冷静で中立な情報収集を心がけることは大事だし、人間は冷静になれないという前提で取引するほうが良い。情報バイアスがかかることを知った上で行動すべきだろう。 例えば、ロスカットラインを守る自信がないのなら、自動売買の機能を使えばよい。逆指値注文とか損切り注文とか、名前は証券会社によって異なるが、ネット証券ならたいてい備わっているはずだ。買った時点で、ロスカット注文を入れ手おけば、バイアスがかかっても問題ない。 ポジションを持つ前にルールを決めて、そのルールを守るという習慣は身につけておく価値がある。 情報収集については、ネットで情報を集めたほうが良い場合もあるが、ネット...

逸話篇一九 子供が羽を

おつとめは真剣に勤めさせていただくべきである。ふざけて勤めるべきではないというのは、おそらく誰もが同意することであろう。しかし、真剣に勤めているのかどうかというのは、自分でしか分からないのだから、他人のことをとやかくいうべきではない。ひながたはどうなのかというと、逸話編の19「子供が羽根を」に、こう書かれている。 教祖は、お手振りして教えてくだされました。そうしてこちらが違うても、言うて下さりません。「恥かかすようなものや。」と、仰ったそうです。 大事なおてふりを間違えても指摘されなかった。ひながたでは、指摘されなかったのが事実である。 私の所属する教会の月次祭は、おつとめを上手に勤めているとは言えない。というか、下手くそだ。音楽を勉強したことのない私が聞いても下手くそだ。しかし、何十年も欠かさず通ってくださっている方が、少しずつだがいろいろなことができるようになってきている。「私はちゃんぽん専門」と仰っておられたが、自分なりに練習をして拍子木も太鼓も叩けるようになった。おやさまがご覧になって喜んでくださっているだろうなと思う。 音楽に長けた人が教会のおつとめを嫌うという話はよく聞く。地方が間違っているとか、太鼓のリズムがずれているだとか、そういったことを言う人は多い。「この教会のおつとめは聞けたものではない」などと言うそうだが。 正しいおつとめというのがどういうものなのか、それは神様にしか分からないわけであって、西洋音楽を基準にすれば間違っているかもしれないが、真剣に勤めていれば神様は喜んでくださるだろう。自分なりにいろいろ悩みながら、神様に喜んでいただけるおつとめがどんなものなのか模索していくのは良いことだろうし、そのための予備知識として音楽を勉強するのは良いことかもしれないが、それを他人に押し付けるべきではないだろう。 音程が外れたりリズムが狂ったりすることによって御守護がなくなったり欠けたりするのであれば音楽をもっと勉強しなければならないが、それなら我々は信仰する前に音楽を勉強しなければならなくなる。おたすけどころではなくなってしまいそうだ。 もちろんだが、お教えくださったおつとめを守っていくとか、あるいは研究していくとか、そういうことも必要だが、全員がしなければならないものでもないだろう。今のところは、御本部の先生方がきちんとしてくれているのだから、末端の...