目的と手段を間違えぬように
人間は目的と方法を間違えやすい。方法が目的になってしまわないよう気をつけることが必要だ。
布教の家のときの話だ。カウンターを持たされて、1日に回った件数を数えなければならないのだが、同僚のKは件数が少ない。私1日に100件が最低件数で、多いときには400件くらい回るのだか、彼は50件くらいで精一杯だ。優秀で努力家のKはサボることはないだろうに、なぜ件数が伸びないのかと気にはなっていた。
ある時、一緒に回る機会があった。彼は一件一件が長い。いちいち粘って神様の話を取り次いでくる。おたすけ先も多い。だから件数が少ないわけだ。
目的はおたすけをすることであって、件数を増やすのは手段でしかないのだが、ここを間違いやすい。「おたすけさえしてりゃ、布教なんてしなくていいんだよ。」とある先生が口癖のように仰っているが、その通りだ。
が、人間は間違いやすいと、私は思う。
天理教というのは手段であって目的ではない。目的は陽気ぐらし世界の建設だ。
教会は信仰しやすくするための手段であって、教会の維持が目的ではない。
間違わないように、ときには立ち止まることも必要だ。
布教の家のときの話だ。カウンターを持たされて、1日に回った件数を数えなければならないのだが、同僚のKは件数が少ない。私1日に100件が最低件数で、多いときには400件くらい回るのだか、彼は50件くらいで精一杯だ。優秀で努力家のKはサボることはないだろうに、なぜ件数が伸びないのかと気にはなっていた。
ある時、一緒に回る機会があった。彼は一件一件が長い。いちいち粘って神様の話を取り次いでくる。おたすけ先も多い。だから件数が少ないわけだ。
目的はおたすけをすることであって、件数を増やすのは手段でしかないのだが、ここを間違いやすい。「おたすけさえしてりゃ、布教なんてしなくていいんだよ。」とある先生が口癖のように仰っているが、その通りだ。
が、人間は間違いやすいと、私は思う。
天理教というのは手段であって目的ではない。目的は陽気ぐらし世界の建設だ。
教会は信仰しやすくするための手段であって、教会の維持が目的ではない。
間違わないように、ときには立ち止まることも必要だ。