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逸話篇一二三 人がめどか

船場の初代、梅谷四郎兵衛先生は短気であったと言う人が多いようだが、実はそうではないと聞かせていただいたことがある。逸話篇の一二三「人がめどか」には 明治十六年、折から普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、「大阪の食い詰め左官が、大和三界まで仕事に来て。」との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜、ひそかに荷物を取りまとめて、大阪へもどろうとした。 とある。大阪一の左官職人が、大和の田舎者にバカにされたわけたが、もし私がそう言われたらその場でキレていたのではないかと思う。とりあえずその場はグッと我慢して、夜まで我慢し、誰にキレることなくそっと出ていこうとされたのである。 いろんな先生から話を聞いていると、梅谷先生のことを悪く言ったのは一人ではない。仲間はずれの状態であったそうだ。田舎者の村社会の中に都会からだれかやってくれば、妬みやそねみがあっても不思議ではない。 すでに出来上がっているグループというの、いつも通りにやっていれば良いのだから居心地は良い。メンバーが増えたり変わったりすることで居心地の良さが失われることを恐れるのだろう。 友達同士ならそれでよいわけだが、教えを広めることを目的としている集団がそうあってはならない。自分たちだけが楽しむようなことになっていないか気をつけていかなければならない。

うをとみ

 夫婦が陽気ぐらしの基本などと言われることがある。親神様が人間創造を思いつかれたときに、最初に夫婦の雛形としてうをとみとをお引き寄せくださったと元の理にあるからだろう。 うを に しゃち を仕込んで月様がお入り込みになる。 み に かめ を仕込んで日様がお入り込みになる。 こうして夫婦の雛形が定まる。男雛形と女雛形は、違うものに違う道具を仕込み、違う神様が入り込まれてできたものであるから、全く違うのである。 しゃちは勢いが強いとか、かめはじっと耐えるとか、そういった細かいことを考えるのも面白いが、最も大事なことは、「違う」ことだと、私は思う。まったく違う二つから世界が始まったのである。 同じようなもの同士であれば分かり合うことは難しくないだろうからうまくいきそうなものだ。しかし、おそらく神様の仰る陽気ぐらしはそうではない。 考え方の違う者同士がお高いを理解しようと努力し、歩み寄っていくことこそを神様は望んでおられるように思う。 異なる考え方をもつ者を排除するという考え方では、いつまでたっても陽気ぐらし世界は実現しないように思う。

「救かる」を単語登録

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 Androidの日本語入力に、私はGoogle日本語入力を使っている。Gboardよりも使いやすいし、登録されている単語も多い。いずれはGboardに統合されるという噂も聞くからGboardも使ってみたが、思うように変換してくれないことが多いので、再びGoogle日本語入力を使うようになった。 そのGoogle日本語入力でも変換してくれない単語は「Google 日本語入力設定」の「辞書ツール」で単語を登録すれば良い。 「たすける」と変換すると「救ける」と変換してくれるが、「たすかる」を「救かる」とは変換してくれない。これを登録するには以下のようにする。 こうしておけば、例えば「たすかった」の候補に「救かった」が表示される。ラ行変格活用ではなくラ行五段活用だから、「動詞ラ変」ではなく「動詞ラ行五段」を選ぶこと。 他のアブリでもだいたい同じようにすれば良い。

頑張ろうかと

息子が生後何ヶ月かのとき、寝返りを打つことができそうな時期があった。もう少しで寝返りを打てそうなとき、夫婦で目を輝かせながら見守ったものだ。やっと寝返りを打てたときには、二人で大喜びしたのを思い出す。 寝返りを打てた瞬間はもちろん大喜びしたが、それだけではない。できるようになろうと一所懸命努力しているように見えただけで喜べるものである。 これが親の心なのだろうかと。 神さんの信心はな、神さんを、産んでくれ親と同んなじように思いなはれや。そしたらほんまの信心が出来ますねで。 逸話篇の一〇四「信心はな」で、おやさまがこう仰っている。 神様は「何かができる」ことを喜んでくださるのではなくて、「何かができるようになった」、あるいは「できるようになろうと頑張っている」ことを喜んでくださるではないかと。

教会の神様

大教会には御霊様のお社が二つある。二つあるから参拝するときには別々に拝む。これは当たり前のことなのだが、祭典日などで祭主が上段から拝むときには別々に拝まずに、一回にまとめて拝む。その理由が長らくわからなかった。 御本部の祖霊殿にはお社が三つあるから、祖霊殿で拝むときには三回拝むのが当たり前だ。が、神殿から祖霊殿を拝むときには一度しか拝まない。それと同じで、上段から拝むときには一度しか拝まないのではないかと教えてくれた役員さんがいた。それもなんとなく理解できなくはない。 他のいろんな人がいろんな理由付けをしているようだが、あまり大した理由はないようだ。真柱様がそれしたからそれを真似ているというのが現実らしい。大教会の記念祭に真柱様が来られたとき、上段から御霊様を一度しか拝まなかったということがあってから、大教会ではそうするようになったそうだ。 例えば、教務支庁に来られたとき、親神様、おやさま、御霊様と拝まれた。正面に向かって拝んだあと、少し右に向かって拝み、そして少し左を向いて拝まれた。その教務支庁には親神様のお社しかないにもかかわらずだ。 おやさまのお社がないということは御目標様もないわけだ。何も祀られていない場所に向かって拝まれたのだから驚きだ。 考えてみれば、「御目標様」と言うくらいだから、拝む目印みたいなものでしかないとも考えられる。逸話篇の一六四「可愛い一杯」に、 神と言うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし とあるのだから、お社の中に神様がいるわけではないのだから、お社に向かって拝む必要もないのだろう。しかしそういうものがなければ拝みにくいだろうからと、神様が許してくださっているように思う。 だからといって御目標様や神実様を粗末に扱って良いというわけではない。しかし、御目標様や神実様を大事にするあまり、もっと大事にしなければならないことを粗末に扱ってしまわないように、常に気をつけるべきだろうかと。