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4月, 2017の投稿を表示しています

USBメモリからChromeOSを起動

事務所のパソコンなんて誰が使っているか分からない。ウイルスに感染したファイルを削除したという記録が、セキュリティソフトのログに残っていた。セキュリティソフトが反応したのだからこのパソコンは大丈夫だろうとは思うが、それでもプライベートな内容を扱うのは恐ろしい。かと言って使える状態にしなければならないし…。 いろいろ悩んだ末、USBメモリにChromeOSをインストールして起動することにした。せっかくやり方が分かったので、ここにメモしておこうかと。ブートディスクを作成したパソコンはLenovoのWindows10だ。 するべきことは大きく分けて3つ。ディスクイメージのダウンロード、USBメモリにインストール、BIOSの設定だ。 ディスクイメージのダウンロードは以下のサイトから。 http://chromium.arnoldthebat.co.uk 「daily」にアクスして、パソコンのプロセッサーにあったイメージファイルをダウンロードする。わからなければ順番に試せば良い。ファイル名が「Cx86…」、「CARM…」、「Camd…」のものの3種類あるから、最新版をインストールすると仮定すれば、3回試せばどれかがヒットするはず。 イメージファイルは7z形式で圧縮されているのだが、Windows10ではデフォルトでは解凍できないので、解凍ソフトをインストールしなければならない。「7z」でググればいくつか見つかるだろう。私が使ったのは7-zip。 http://sevenzip.sourceforge.jp/ 解凍したイメージファイルをUSBメモリにインストールするには、専用のソフトが必要。私が使ったのはWin32 Disk Imager。 http://sourceforge.net/projects/win32diskimager/files/Archive/ ダウンロードしたファイルで起動ディスクを作れば、次はBIOSを設定する。BIOSの設定をする方法は機種によって異なる。「機種名 BIOS」でググれば見つかるはず。私の使っているパソコンでは、起動直後F2キーを押し続けることでBIOSの設定画面に入れた。F8キー、F12キーで起動する機種もある。 起動順位を変更してUSBメモリをハードディスクよりも先に持ってくれば良い。英語が少...

その場の楽しみをして

食えない苦労、寒くて眠れない苦労をしなければおさづけが効かないと、ある先生から教えていただいた。こうのうを得るために必要なことは難儀不自由、艱難苦労であると、おさしづのいろいろなところに書かれてある。 得られたこうのうはなくならないものなのかと思っていたが、そうでもないようだ。明治22年3月21日のおさしづに、 その場の楽しみをして、人間というものはどうもならん。楽しみてどうもならん。その場は通る。なれども何にもこうのう無くしては、どうもならん事に成りてはどうもならん。 とある。神様は「その場の楽しみ」を戒めておられる。 詰所の勤務をしながら他のことも色々とやっていると、忙しいし十分に寝ることもできないのだが、勤務そのものは楽しい。こんなことではダメだ。もっと苦労しなければ。

何処からでも芽を吹く

においがけおたすけを一所懸命やっていれば、どこかで必ず芽が出ると、多くの布教師の先生方が仰る。「東で撒いた種が西で生え…」というのは、有名なフレーズだ。 少し布教の真似事をした私でも、それくらいのことは神様が見せて下さる。教理は本で学ぶものではなく、おたすけの中で体験するべきものだと、そんなことも実績のある多くの先生方が仰るのだから、わざわざ原典に根拠を求める必要もないだろうと思っているつもりだった。 が、おさしづを読んでいて見つけてしまった。根拠など必要ないと思っているつもりだったのだが、どこかに少しだけ不安が残っていたのだろう。 せっかく見つけたので引用しておこうかと。明治三十年五月二十一日のおさしづだ。 道のためあちらへもこちらへも種を下ろし、道のために尽したなら、何処からでも芽を吹く。又、道のため一つの理あれば、見て居る者は無い。所々種を下ろして、世界からうっとしい理も無くばならん。一時の処はどうなろ。めん/\一つの理に持って、あちらへもこちらへも種を蒔く。あちら不作でも、こちらは十分取れる。こちらから還る、お前は放って置かれんという理は、何処に放って置かれん。一代限りじゃなあと思えば蒔き流し、一時もう理をよう聞き分け。一つの理は為すいんねん諭しの理に籠ってあると諭し、前々蒔いたる理何処へでも生える。これだけ諭したら、真も定まるであろ。よう聞き取ってくれ。

包んで居ては真実真の事とは言わん

言うべきか言わざるべきかと悩むことが多い。自分の癖性分でそう思っているのなら言うべきではないし、その環境でたんのうすることを神様が望んでおられるかも知れないと常々考えなければならない。すべては親心で、その親心を否定することなく、たんのうすることは大事だ。 だから、誰が何をしても、ただ黙っていれば良いのだと、そんなことを思っていたのだが、どうも違うようだ。明治三十一年十一月三日のおさしづに、 何ぼどういう事を言うたて、言うのが悪いなあ、言うてはいかんなあ。包んで居ては真実真の事とは言わん。我が身捨てゝも構わん。身を捨てゝもという精神持って働くなら、神が働く、という理を、精神一つの理に授けよう。 言うと嫌われるかも知れないと気を使って言わないのが普通の人間だが、「包んで居ては真実真の事とは言わん。」と神様は仰る。難しいことだが、神様がそう仰るのなら、そうするべきだろう。

何から何まで

逸話篇には日々の通り方が具体的に書かれていて分かりやすい。 四六 何から何まで  ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司が、増井りんに、「それを料理するように。」と、言い付けた。りんは、出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おりんさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理しておくれ。」 と言った。出刃はなかったのである。  りんは、余りのことと思ったので、ある日お暇を願うて、河内へもどった。ちょうど、その日は、八尾のお逮夜であったので、早速、八尾へ出かけて、出刃庖丁と薄い刺身庖丁と鋏など、一揃い買うて来て、お屋敷へ帰り、お土産に差し上げた。秀司もまつゑも大層喜んで、秀司は、「こんな結構なもの、お祖母様に見せる。一しょにおいで。」 と促した。 教祖にお目にかかって、留守にしたお礼を、申し上げると、教祖は、それをお頂きになって、  「おりんさん、何から何まで、気を付けてくれたのやなあ。有難いなあ。」  と、仰せになって、お喜び下された。りんは、余りの勿体なさに、畳に額をすり付けて、むせび泣いた、という。 一昨日、ある青年が詰所に無線LANのアクセスポイントを設置してくれた。おかげでWi-Fiの電波の届く範囲が広がって便利になった。 わざわざ電気屋街へ行って機器を購入し、わざわざ詰所までやってきて設定をして帰って行った。「何から何まで」だ。だから彼は神様から好かれているのだろう。 以前に大教会のネットワーク環境を整備したときのことだが、その作業をしている時に、たまたまそこにいた会計の先生が声をかけてくださった。そして、機器の代金を大教会に請求するようにと言ってくださった。それに甘えて代金を請求した自分を恥ずかしく思う。一度は断ったのだが…、という言い訳は通らないだろう。 教えを頭にいれるのは大学受験の英単語を覚えるよりも遥かに簡単なのだが、それを常々実行するのは難しいと、いつも思う。

天が見通し

名前出さいでも、天が見通しという理聞き分け。 どれだけ隅に居ても蔭に居ても、天が見通しという。 人がどう言うこう言うても、天が見通し。 めん/\それ/\心と心、天が見通しである。 わざわざ書く必要もないことだろうが、手元にある資料を開いたときに目に止まったので、せっかくなので書いておこうかと。