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八つの埃を心に治める

八つの埃は、天理教の基本教理の一つで、天理教の人ならおそらく誰でも知っていることだろう。しかし、知っているだけでは何にもならない。確かにそうだと思っているだけでは何もならない。明治三十二年七月二十三日のおさしづに、 日々八つ/\のほこりを諭して居る。八つ諭すだけでは襖に描いた絵のようなもの。何遍見ても美し描いたるなあと言うだけではならん。めん/\聞き分けて、心に理を治めにゃならん。この教というは、どうでもこうでも心に理が治まらにゃならん。あちら話しこちら話し、白いものと言うて売っても中開けて黒かったらどうするぞ。 神様の仰る「心」という言葉は、記憶や思考、あるいは精神という意味ではなく、身の行いのことだ。頑張ってそれを覚えたとしても、それが行動に現れていなければ意味がない。

春が来れば花が咲く

神様は未来のことまできちんと計画をしてくださっている。この道を通っていれば何も怖いことはなく、明るい未来が待っているだけなのだから、ただ歩かせてもらえば良い。しかし、人間は未来が見えないから、つい不安に思ってしまう。人間の親なる神様が教えて下さる方向へと歩いていれば良いのだが、つい不安になってしまうのが人間の悲しいところだ。 お道を通っていて何も良いことがないというのは、それは良いことが起こる旬ではないからだ。明治二十三年十二月十八日のおさしづには、 「春が来れば花が咲く」とある。何も良いことが起こらないのは、冬に花が咲かないのと同じだ。春まで待てば良い。

根のある花は遅なる

まじめに布教をしようと決めてから、もう一年くらい経つ。たった一年だ。初席者もできず、おたすけ先も一件か二件くらいなものである。これが仕事なら大変なことだ。会社で一年も働いていてなにの実績も出ないのなら、クビになるか、あるいはもう出世はできないだろう。しかし、それは世上のこと。神様は時間がかかるものだといつも仰る。明治二十四年十一月一日のおさしづに、 多く事情に世上の理、めん/\一人幾重の事情に、長くは先の楽しみ、短いは楽しみ無し。これ俄かに咲く花は、切って来て床へ挿してあるも同じ事。これはのじの無いものである。さあ/\これ根のある花は遅なる。なれども年々咲く。又枝に枝が栄える。根も踏ん張る。こゝの道理をよう思やんしてみよ。 すぐに結果が現れたのなら、それは「切って来て床へ指してある」のと同じだと仰る。土に根が生えている生えているわけではないのだから、美しいのはその時だけですぐに枯れてしまう。根のある花を咲かせるには、育つまで待たなければならないのだから時間がかかる。 神様がこう仰るのだから、あせらずにコツコツ布教に歩かせてもらおう。

天理教の教えは簡単だが

天理教の教えは難しいものではない。基本的な教理といえば、元の理、十全の御守護、八つの埃くらいなものであり、その実践的な行いはすべておやさまのひながたとしてお通りくだされてある。覚えるべきことは極めて少ない。毎日拝読していれば頭に入ってくるだろう。無理に覚える程でもない。 天理教の教えは難しくはないのだが、それを実践するのが難しい。明治二十年十一月八日のおさしづには、 さあ/\身の内の処よう聞き分けねばならん。さあ/\神の方には不足の身体は貸してない。不足というは、めん/\の心より。成程結構という事は分かるである。一寸道歩く。あゝ綺麗な花やなあと言うて通ったまで。さあ誠一つ願う時の心定めねばならん。内々めん/\身に知らす。 とある。なるほど、結構だということまでは誰でも分かるほど、天理教の教えはありがたいが、そう思っているだけでは「あゝ綺麗な花やなあと言うて通ったまで」と神様は仰る。綺麗な花を眺めているだけのことであって、綺麗な花を咲かせたわけではない。 自らが綺麗な花を咲かせるには、なるほど、結構と思うだけではなく、それを日々に実践していかなければならない。おさしづにもおふでさきにも、このような意味のことがよく書かれている。著名な布教師の先生方は、本気で実践されたのだろうかと。

病の元が心なら精神病は助からない?

みかぐらうたの十下り目に「やまひのもとハこゝろから」とある。「病の元は心から」である。では、心を病んでしまったらどうなるのだろうか。 昔、ある先生から「病の元は心からというのだから、精神病になると天理教ではなかなか御守護いただけない。」と言われたことがある。世界一列を助けたいと仰る神様が、精神病だけは助けないということがあるはずがない。その先生は精神病のおたすけが苦手なだけだろう。精神病であれ何であれ、医者の手余りは神様が助けてくださるのである。現に私の周りには助かった人がたくさんいるし、現在もおたすけの最中だ。 心の病になるとどうしようもないと考えるのは、言葉遊びとしては妥当なのかもしれないが、おやさまはおたすけをされている。「気の違い」あるいは「気の間違い」と表現されているものは、おそらく精神病だろう。 ここで注意しておかなければならないのは、「病の元は心から」の「心」という言葉と、「心の病」の「心」という言葉は意味が違うということだ。現代の我々が「心の病」と言った場合の「心」は「精神」という意味だが、おやさまの仰る「心」はそうではない。同じ「心」という言葉であっても、時代が違えば意味が異なるのは当然だ。中学か高校で古典を習っていれば、それくらいは分かるだろう。 我々が日常的に使う「心」という言葉と、神様が仰る「心」という言葉は意味が違う。「病の元は精神」からではない。 おさしづには「精神」という言葉は使われているが、その場合には「心」と同じような意味で用いられているように思う。おさしづの「精神」という言葉の意味と、我々が使う「精神」という言葉の意味も全く同じではないという点にも注意しなければならない。 何が言いたいのかというと、世界一列を助けたいと仰る神様は精神病の人も助けてくれるという、至極当たり前のことを言いたいだけだ。

皮膚が乾燥は水の心遣いができていないから

少し前のこと、右手の指にあかぎれができた。大気が乾燥しているのが原因だというのは世上の人が考えることであって、お道を通る我々は、こんなことでも心を改めて埃を払おうとするべきだろう。では、どういった心遣いが肌の乾燥につながっているのだろうか。 乾燥するというのは、言うまでもなく水の御守護が足りないからであって、つまり、くにとこたちのみこと様の御守護を頂けていないことを意味する。肌が乾燥することで生命が脅かされるというほどではない。水の御守護はほとんどいただけているのだが、隅々までは行き届いていないと考えられる。 ということは、水の心遣いはほとんど出来ているのだが、もう少し足りないということだろう。水の心遣いというと、よく言われるものがいくつかある。 その一つは低い心だ。水は低いところへ流れる。水の御守護がいただけていないときには、心が高くなっている可能性がある。もう一つは周りに合わせることだ。水は方円の器に従うと古くから言われる通りで、水には形がないのだから、自分の考えを主張するのではなく、周りに合わせていくことが必要だ。 低い心になっているつもりでいても、ついつい高くなりがちだから気をつけなければならない。周りに合わせているつもりでも、やはりつい自分が正しいと思っていることをやってしまいがちだ。 例えば、教会生活の上で、会長さんのいうことを素直に聞いているだろうか。会長さんはこう言うけれども、私はこちらが正しいと思うからこうすると、そんな行いをしていないだろうか。朝夕のおつとめにしても会長さん、あるいは芯になる人に合わせているだろうか。こういったことを確認していかなければならない。 皮膚科を探すことを否定するわけでもないし、保湿クリームを買いに行くのを否定するわけでもないが、それらはあくまで修理肥でしかないのだから一時的な対処にしか過ぎない。「病の元は心から」である。