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11月, 2016の投稿を表示しています

GoogleDrawingでパンフレット作り

団参のパンフレットを作らなければならなくなった。手元にはChromebookしかない。PhotoshopとIllustratorをインストールしてあるWindowsマシンがあればと思ったのだが、ないのだから仕方がない。どうしようかと思っていろいろ調べてみると、GoogleDrawingというアプリを見つけた。これが割と使える。 使えるというと誤解を招きそうだ。プロではない普通の人が必要とするくらいの機能があるというのが正しいかもしれない。プロなら機能が不足していると感じるかもしれないが、素人には十分だ。そこそこの文字を打つことができて画像を貼り付けられれば、それなりのものはできる。 Chromebookに画像加工のアプリがないものかと思って探してみたが、良い物があまり見つからなかった。ググってみて、オンラインのサービスで十分に使えることを知った。私が使ったのは「写真加工.com」というサービスだ。 http://www.photo-kako.com/ 中古のWindowsを買おうかどうかと迷ったが、買わずに済んだ。

見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと

「見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと。」というのは、一体誰が言ったのか分からないのだが、天理教の人はよく言う。明治二十年十二月十一日のおさしづに、 前々のさんげせと言うても分かるまい。神は世界四方正面として鏡に皆映してある。それ難儀な/\者も同んなし兄弟。俺もあんな身ならなあと、やれ/\たんのう、たんのうは誠より出やせん。 とある。人間は生まれ変わるときに前生の記憶を失うのだから、前生にどんなことをしてきたのかはわからない。しかし、神様はそれが分かるように計らってくださる。お道を通っていれば因縁を抑えてくださるのだか、因縁が出てこないがために因縁を知ることはできない。それはそれでありがたいのだが、因縁を自覚しなければありがたさもわかりにくいだろう。そこで神様は、それをいつも見せてくださるのである。 もしもお道を通っていなかったらどんなことになっていたのかということを、においがけとおたすけを通して見せてくださるのである。においがけに出れば、同じような身上の人にばかりに出会う。例えば、私の場合は、頭の身上の人ばかりに出会うのだが、これは神様が私に教えてくださっているのだ。もしも私がお道を信仰していなかったのなら、頭の身上でおたすけをしてもらわなければならなくなると。 「見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと。」と言われると、少し恐ろしく感じる。「前生でお前はこんなふうに通ってきて、そして本当ならこんなふうに苦しまなければならないのだぞ。」と神様から叱られているように思えてしまうのは私だけではないはずだ。 しかし、考え方を変えれば、信仰をしていることによって、自分の通らなければならない因縁を、見る因縁や聞く因縁、おたすけする因縁に変えてくださるということでもある。どんなにひどい因縁があったとしても、お道を信仰している限り、その因縁は見て聞いておたすけをさせていただくだけで良く、自分が苦しまなくて良い。 なんとありがたいことかと。

たんのうは前生因縁のさんげだが…

「たんのうは前生因縁のさんげ」と教えられる。これは事あるごとに教えられていて、例えば明治二十年のおさしづに、「そこで、たんのうと心を定めるは、前生のさんげとなる。」や、「いんねん一つのさんげはたんのう一つの理を治め。」などとある。今ある苦しい状況を喜ぶことによって、前生に積んできた因縁を許してくださるのである。だから何があっても喜ぶことが大事だ。 何があっても、それを喜んで受け入れることができれば良いわけだが、なかなかそれができないのが人間である。たんのうというのは喜びの心だという人もいるが、自然と喜べるようなものではないだろう。苦しみ悩んで因縁を理解し、感情的には受け入れられなくても我慢し、無理やり喜ぶくらいでないと前生因縁のさんげにはならないだろうと私は思う。 例えば「成らん中たんのう、治められん処から治めるは、真実誠と言う。前生いんねんのさんげとも言う。」や、「ならん中たんのうするは、前生さんげ/\と言う。」、あるいは「出けんたんのうするは、前生いんねんのさんげ。」というように、どうにもならないことを抱えて、それでもたんのうすることで前生因縁のさんげとなるわけである。おさしづの文章を読めば簡単なように思えるかもしれないが、実際にはかなり苦しんだり悩んだりしているところでたんのうをしなければならないのだろう。 本当に苦しんだり悩んだりしているときには、たんのうできそうにもないのだが、それが分かるようにと神様は計らってくださる。それが「世上いんねん見てさんげえ。」や、「世上見てすれば治まらんやない。」というように、世上を見ることによってたんのうができ、それによってさんげができると仰る。もしもお道を通っていなかったらどうなっていたのかというのは、実際にお道を通っている自分にはわからないものであるが、それは「世上へ映してある」と仰る。明治二十年十二月十一日のおさしづには、 何で一つよう成らん。よう成らんではない。前々のさんげせと言うても分かるまい。神は世界四方正面として鏡に皆映してある。それ難儀な/\者も同んなし兄弟。俺もあんな身ならなあと、やれ/\たんのう、たんのうは誠より出やせん。 とある。お道を通っているからあんなひどいことにはなっていないのだということが分かるように、神様は世上に映してくださるのである。布教に歩かせていただいていれば、同じよう...

誠の心一つ

明治二十年七月のおさしづ「大阪近藤政慶若狭行きの伺」 さあ/\尋ねる事情を、どうせともこうせとも、行けとも行くなとも、どうしてやろうこうしてやろうとも、この処、前から言うた事はないで。何事も皆銘々の心次第と言うてある事やで。何処に居ても月日の身の内や。何処に居るのも同じ事、誠の心一つや。誠が天の理や。天の理にさえ叶えば、何処に居ても道が付くで。実誠無けねば、何処い行たとて、何をしたとて道は狭ばむばかりやで。しいかり聞き分ねば分からん。しいかり聞き分けて諭すがよい。 誠が天の理であって、天の理にかなってさえいれば、どこにいても道がつく。実誠がなければ、どこに行っても、何をしても道は狭くなる。ありがたく、厳しいお言葉である。布教にはコツや技術が必要だと思ってしまうのが人間心だが、最も大事なのは「誠の心」である。毎日の布教活動の中では忘れがちだが、決して忘れてはならない。

道皆ちゃんと決まりてある

明治二十年八月二十三日のおさしづに、 立毛の育つも、この世始めも同じ事、無い人間を拵えて、初めより、ものが言えたやない。一年経てば一つ分かる。又一つ分かれば、又一つ分かるように成って、もの言うように成りたも同じ事。順序事情の道を伝うて、何事も一つ/\分かる。道を伝うて、何事も一つ/\分かる。道皆ちゃんと決まりてあるのや程に。 何事もすぐにできるようになるのではなくて、一つ一つ分かっていくものである。「立毛の育つ」とは、つまり農作物が育つということだ。作物が育つには時間がかかる。人間がどれだけ世話をしたからといって、今日種を撒いて明日収穫するということはできない。何をやっても時間はかかるものである。だから焦っても仕方がない。 逆に、道はきちんと決まっていると仰るのだから、順序どおりにきちんと歩んでいれば良いのである。

使い勝手の悪いのは一度切り

自分に布教をした人が誰なのかとたどっていくことで理の流れが分かり、因縁も少しは分かる。だいたい、同じ因縁の人ににおいがかかるものだ。たどっていくと、においをかけた家がもう信仰していないということも多い。ある大教会の初代ににおいをかけた人の家系が絶えてしまっているということもよくある。 においをかけたことによって助けたのだから、その助けた理で少しは助かるだろうが、本気で信仰したわけではないのだから、一代限りしか助からないのだろう。神様は、その人を、ただにおいをかける道具としてしかお使いにならなかった。なぜだろうかと。 明治二十年三月十五日の刻限御話に、「さあ掃除や。箒が要るで、沢山要るで。使うてみて使い良いは、いつまでも使うで。使うてみて、使い勝手の悪いのは、一度切りやで。」、とある。道をつけるために神様はその人をお使いになったのだろうが、使い勝手が悪かったのだろう。 「使い良い」道具になれるような努力をしなければならないかと。

神の域に達するには、まず妖怪になれ

蛙の子はお玉やで、これはわかっているやろ。お玉は自分は蛙の子やとなかなか納得できないやろ。蛙とお玉はぜんぜん違うからなあ。お玉は、いつまでも鮒や泥鰌と一緒にいたいと思うやろ。それと同じようなことが人間にも言えるのや。人間はなあ、人間として生きる道は考えて通るやろうが、神の子としての道が本当に通れるやろうか。 口伝として残っている。人間は、人間思案だけで生きていれば、ただの人間として一生を終える。伝説の布教師と呼ばれる先生方は、人間として生きることを諦めたと、うちの師匠は教えてくれた。 神様のようにおたすけをされる先生方は、最初からそうだったのではない。そこに達する前に気持ち悪い状態があったと。師匠はそれを「妖怪」と呼ぶ。断っておくが、天理教の教えの中に「妖怪」というものはない。オタマジャクシからカエルになるときには、オタマジャクシでありながら足が生えてきて、オタマジャクシでもないカエルでもない、気持ち悪い格好になる。 ようぼくも素晴らしいおたすけ人になるにはこの気持ち悪い妖怪のような状態を経なければならないそうだ。もはや神の域に達しただろうと思うような素晴らしいおたすけ人の先生方には、必ず妖怪のような気持ち悪い時期があるとのこと。