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鏡の奥にある声──確証バイアスを越える習慣

成功の声は、いつも明るく、力強く響く。   それは希望の旋律であり、未来への誘いでもある。   だがその音に耳を澄ませるほど、静かに沈んでいく声がある。   失敗の声。語られぬ選択。見たくない結果。   人は、自分の信じたいものを集める。   それが確証バイアスという鏡を生む。   鏡は、見たいものだけを映し出す。   成功談ばかりを聞けば、自分もその道を歩める気がしてくる。   だがその鏡は、歪んでいる。   その奥には、語られなかった物語がある。   私は、失敗の声に耳を傾ける習慣を持つようになった。   株で損をした人の話、過信が判断を狂わせた瞬間、   冷静さを失ったまま突き進んだ末路。   それらは、私の思考を照らす灯火となった。   見たくないものに目を向けること。   それは勇気であり、習慣である。   毎日少しずつ、反証の情報を探す。   自分の判断を記録し、振り返る。   感情と事実を分けて考える。   他者の視点を借りて、自分の鏡を磨く。   そうした習慣が、確証バイアスの霧を晴らしていく。   判断は、静かに澄んでいく。   鏡の奥にある声が、ようやく届くようになる。   確証バイアスに勝つとは、戦うことではない。   見えないものに目を向ける習慣を育てること。   それは、未来を拓く静かな力だ。   --- ご希望に沿えていたら嬉しいです。さらに詩的な余韻を強めたり、語り口を変えたりすることもできます。義史さんの創作スタイルに合わせて、どこまでも磨き込めますよ。次はどんな方向に進めましょうか。

見たい夢だけが詐欺を呼ぶ

人は、信じたいものを信じる。見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞く。   それが「確証バイアス」という、人間の深い性(さが)だ。   多くの人は、楽して儲けたいという夢を見ている。   その夢に寄り添うように、詐欺は忍び寄る。 「元本保証で年利10%」──この言葉に違和感を覚えるだろうか。   「プロが運用するから安心」「特別な情報をあなたにだけ」──これらは、投資詐欺の常套句である。   詐欺師は、聞き手の欲望に寄り添う言葉を巧みに選ぶ。   「安全で儲かる」という幻想に目を曇らせたとき、現実のリスクは見えなくなる。 投資の世界には、揺るぎない原則がある。   それは「ハイリスク・ハイリターン/ローリスク・ローリターン」──金融の世界に刻まれた自然律だ。   高いリターンを得るには、高いリスクを受け入れる必要がある。   逆に、リスクを抑えれば、リターンも控えめになる。   この律に反する「安全で高利回り」という言葉は、現実には存在しない。   それは、欲望に寄り添う幻想であり、詐欺の入り口なのだ。 投資詐欺に遭う人の多くは、金融知識がないわけではない。   むしろ、「儲けたい」「損したくない」という感情が、知識の上に覆いをかけてしまう。   だからこそ、必要なのは「違和感を持つ力」である。   「そんなうまい話があるだろうか?」と自問する習慣。   自然律を思い出す冷静さ。   そして、「見たいものしか見ない」という人間の性を自覚すること。 保証された果実は、腐ることもある。   リスクのない世界に、リターンは育たない。   欲望に目を曇らせぬ者だけが、真の利益を手にする。   「安全で儲かる」──その言葉に違和感を持てるかどうかが、投資家としての分かれ道である。

うまくやることの代償

うまくやることは、いつも静かに始まる。   誰にも気づかれないほどの工夫。帳簿の隅に置かれた数字。   「この一回だけ」「今だけ」——そんな言葉が、風のように通り過ぎる。 ニデックの不正会計が報じられたとき、驚きよりも、どこか既視感のようなものがあった。   制度の堅牢さを誇る企業で、なぜそんなことが起こるのか。   だが、問いはいつも遅れてやってくる。   最初の工夫は、誰かを救うためだったかもしれない。   報告を整え、数字を揃え、誰も困らないように。   それは、善意だったのかもしれない。 うまくいってしまった。   誰も咎めず、誰も問わず、風は静かだった。   その静けさが、繰り返しを許した。   繰り返しが慣れとなり、慣れは仕組みとなった。   そして、仕組みは制度に溶け込んだ。 監査法人は意見を表明できず、株価は急落し、信用は揺らいだ。   だが、代償は数字では測れない。   それは、制度の中に息づいていた“うまさ”が、制度そのものを変えてしまったという事実。   誰もが「うまくやった」と思っていたその先に、戻れない道があった。 経済学は言う。「フリーランチはない」と。   何かを得るには、何かを失う。   その原則は、帳簿の中にも、会議室にも、私たちの判断の中にも、静かに息づいている。 工夫は必要だ。創意は組織を支える力だ。   だが、倫理との境界を見失ってはならない。   「うまくやること」が、制度を歪める前に。   問い直すべきなのは、数字ではなく、私たちの静かな判断かもしれない。

投資スタイルを見極める──情報との付き合い方

株式投資を学ぶとき、多くの人がウェブサイトや書籍を頼りにするだろう。しかし、そこに書かれている情報を鵜呑みにする前に、まず確認すべきことがある。それは「どのようなスタンスで語られているか」という点だ。 スタンスとは、投資の期間や目的によって異なる視点のこと。誤解を恐れずに言えば、短期か長期か──その違いが、投資の判断基準を大きく左右する。 たとえば「ロスカット(損切り)」の重要性は、ほとんどの投資家が知っている。しかし、その徹底度はスタイルによってまるで異なる。短期売買を志すなら、ロスカットは命綱だ。損失が一定以上に膨らめば、感情を挟まず機械的に切る覚悟が必要だろう。 一方、長期投資では、ロスカットをしないという選択肢すらある。企業の成長を信じて持ち続けることが、結果的に資産形成につながる場合もあるからだ。 このように、同じ「ロスカット」という言葉でも、意味合いはスタイルによって変わる。だからこそ、情報を読むときは「これはどの投資スタイルを前提にしているのか?」を意識する必要がある。そうでなければ、長期投資の好機に慌てて売ってしまう──そんな本末転倒な行動にもつながりかねない。 すでに自分のスタイルが定まっている人は、それを軸に情報を取捨選択すればよい。まだ模索中の人は、情報の背景にあるスタンスを見極めながら、自分の投資観を育てていくことが大切だ。

英断は、光と影を孕む──批判と創造の境界線

ある企業が赤字事業の撤退を決断した。数百人の早期退職者が出た。ニュースは冷静に報じ、SNSは騒ぎ、社内はざわめいた。だが、この出来事は単なる経営判断ではない。何かが揺らいでいる──それは、組織の信頼であり、働く人の尊厳であり、そして人間の判断そのものだ。 事業撤退の背景には、長年の赤字、技術革新の遅れ、競合の台頭があった。経営陣は悩み抜いた末に、撤退という「英断」を下した。それは、企業を存続させるための選択だった。だが、その副作用は今も続いている。雇用喪失、地域経済の衰退、社員の不信感──それらはすべて、あの英断の影である。 そして今、その副作用を批判する声がある。「もっとやりようがあった」「現場を知らない経営陣の責任逃れだ」。だが、それは「あとからの批判」であり、「安全地帯からの言葉」ではないか。 危機の中で、誰もが初めての状況に立たされる。その場で見える限りの情報と資源を使って、最善の手を打つしかない。副作用を知らずに進めることもある。それは「生き延びるための代償」だ。 他人が苦境の中で必死に選び取った決断を、後になって簡単に批判するのは、誠実さに欠ける態度だと思う。その批判に時間を費やすより、社会の課題に向き合い、自分の価値を高める方が、遥かに建設的で未来志向ではないだろうか。 英断は、光と影をともに孕む。影を見て光を否定するのは、歴史への不誠実だ。

掌に沈む──誠実さが企業を滅ぼすとき

企業が滅びるとき、そこにはしばしば裏切りがある。顧客を見捨て、社内の論理に溺れ、時代の声を聞かずに沈んでいく。そうした滅びは、冷たく、当然のように語られる。だが、すべての滅びがそうではない。Palmという企業は、顧客を裏切らなかった。むしろ、顧客の満足を守るために、変わることを拒んだ。その誠実さが、静かな沈黙へとつながっていった。 かつて、情報は掌に宿っていた。Palmの端末をクレードルに置き、パソコンを立ち上げ、COMポートの設定に苦しみながらも、HotSyncのボタンを押す。それは不便だった。だが、そこには確かな手触りがあった。情報を自分の手で整え、持ち歩くという感覚。Palmは、その感覚を信じ、顧客と共に歩んだ。 後期のPalmにはWi-Fiが搭載された。だが、設定は煩雑で、同期は依然として儀式のままだった。一方、AndroidやiPhoneは、IDとパスワードを入力するだけで、世界が戻ってくる体験をもたらした。同期は背景処理となり、儀式は消えた。技術は、便利さと引き換えに、手触りを失った。 Palmは、少数の顧客に深く愛されていた。その顧客の満足を守るために、企業は変わることを躊躇した。そして、顧客と企業は、互いに裏切ることなく、静かに沈んでいった。それは敗北ではない。それは、誠実さの果てに咲いた、静かな花だった。 経営とは、時に残酷な選択を迫る。顧客の声に耳を傾けることが、未来への扉を閉ざすことになる。Palmは、その扉を開けなかった。顧客を裏切らなかった。だからこそ、滅びた。だが、その滅び方は、美しかった。 さて、我々はどうだろうか。

アリのように働く

「犬のように働く」よりも、「アリのように働く」ほうが、会社にとっては都合が良い。   犬は忠実に走り続ける。命令に従い、休まず、ただ前を向いて。けれどアリは、群れの中で余力を残す。働く者、待つ者、そしてそのあいだに揺れる者。その余力が、非常時に組織を救う。 先日のシステムトラブル。完全ではないが、日常は戻りつつある。休日に出勤し、残業を重ね、誰かが誰かの穴を埋めた。社員も、非正規も、肩書きの境界を越えて。その姿に、普段の働き方の余白を思った。余裕があるから、無理ができる。無理ができるから、会社は止まらなかった。 ふと、アリのことを思い出した。常に働いているのは、全体の二割ほどだという。残りは、動かず、待ち、備える。その静けさが、群れの持久力になる。全員が同時に走れば、全員が同時に倒れる。だから、誰かは休み、誰かは立ち止まる。 人間の職場も、きっと同じだ。普段は目立たない人が、いざというときに動き出す。その動きが、組織の底を支えるときに、常に全力で働いている人が、余裕のある働き方をしている人を批判することがある。「もっとやれるはずだ」「なぜ手を抜くのか」と。けれど、全体を見渡せば、余裕のある人がいることもまた、大切なことなのだ。その余力が、誰かの限界を支え、非常時の力になる。 働き方は、ただの個人の姿勢ではなく、集団のかたちでもある。そのことを、忘れずにいたい。

逆張り長期投資──静かなる構え

市場がざわめくとき、人は「備えよ」と言う。嵐が来るぞ、現金を抱け、リスクを手放せと。けれど私は思う。備えるとは、恐れを抱くことではなく、拾う準備をしておくことではないかと。 価格が崩れ、誰もが目を背けるとき、そこにこそ、静かに光る種がある。逆張りとは、ただ逆らうことではない。市場の感情と構造のズレに耳を澄まし、確信をもって拾う行為だ。 私はこの数日、銀行と保険の株を少しだけ拾った。もともと目をつけていた銘柄たちが、嵐の中で手の届くところに降りてきた。それは偶然ではない。買いたいものを、あらかじめ心に置いていたからだ。 急落は、恐怖の顔をしてやってくる。だがその裏には、静かな贈り物がある。それを受け取れるかどうかは、日々の構えにかかっている。 逆張り長期投資とは、構造と時間に支えられた、静かな勇気のかたち。市場の悲鳴に耳を塞ぐのではなく、その奥にある真実に、そっと手を伸ばすこと。 備えるとは、 買いたい銘柄を知っていること。 逆張りとは、その銘柄に、恐れず手を伸ばせること。長期とは、その手を、離さずにいられること。

VAIOの記憶から、ソニーフィナンシャル(8729)へ

最近、ソニーフィナンシャルグループ(証券コード:8729)の株を買い始めた。ソニーという名前を聞くと、まず思い浮かぶのは、かつて愛用していたVAIOのノートパソコンだ。洗練されたデザインと操作感は、当時の国産PCの中でも群を抜いていた。MacとVAIO、どちらを選ぶか本気で悩んだ記憶がある。 そんなVAIOが、ある日突然ソニーの手を離れた。スマートフォンやタブレットが急速に普及し始めた頃のことだ。VAIOユーザーだった私は、驚きと少しの寂しさを感じた。経営が苦しかったのか? そんな憶測も浮かんだが、今振り返れば、あれは未来を見据えた冷静な判断だったのだと思う。 実際、今の私はパソコンを持ってはいるものの、使う頻度は月に数回程度。日々の作業のほとんどはスマホとタブレットで済ませている。ソニーは、そうした時代の流れをいち早く読み取り、パソコン事業から潔く撤退したのだろう。 そして今、ソニーはまたひとつの選択をした。ソニーフィナンシャルグループを連結から外し、独立した企業として再上場させた。持株比率は20%未満。これは切り捨てではなく、むしろ自律的な成長を促すための戦略的な一手だと感じている。 証券会社は持たない。あえて、持たない。ソニーは昔から、何を持ち、何を持たないかを見極める力に長けている。AIやセンサー、エンタメ領域に注力し、金融は金融で育てる。証券業という複雑で規制の多い領域には踏み込まず、保険と銀行に集中する。その選択が、ソニーらしい。 ソニーフィナンシャルの中でも、ソニー損保はCMなどでよく目にする。商品設計もユニークで、存在感がある。一方、ソニー銀行は堅実だが、やや控えめな印象だ。だが、それもまたソニーの美学なのかもしれない。派手さよりも、確かな選択を重んじる姿勢。 私は今、ソニーフィナンシャル(8729)に投資している。VAIOを手放したあの決断のように、今回もまた、未来を見据えた選択が正解になるかもしれない。持たないという選択の先に、どんな景色が広がるのか──それを見届けたいと思っている。