見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと
「見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと。」というのは、一体誰が言ったのか分からないのだが、天理教の人はよく言う。明治二十年十二月十一日のおさしづに、 前々のさんげせと言うても分かるまい。神は世界四方正面として鏡に皆映してある。それ難儀な/\者も同んなし兄弟。俺もあんな身ならなあと、やれ/\たんのう、たんのうは誠より出やせん。 とある。人間は生まれ変わるときに前生の記憶を失うのだから、前生にどんなことをしてきたのかはわからない。しかし、神様はそれが分かるように計らってくださる。お道を通っていれば因縁を抑えてくださるのだか、因縁が出てこないがために因縁を知ることはできない。それはそれでありがたいのだが、因縁を自覚しなければありがたさもわかりにくいだろう。そこで神様は、それをいつも見せてくださるのである。 もしもお道を通っていなかったらどんなことになっていたのかということを、においがけとおたすけを通して見せてくださるのである。においがけに出れば、同じような身上の人にばかりに出会う。例えば、私の場合は、頭の身上の人ばかりに出会うのだが、これは神様が私に教えてくださっているのだ。もしも私がお道を信仰していなかったのなら、頭の身上でおたすけをしてもらわなければならなくなると。 「見るも因縁、聞くも因縁、世話取りするはなおのこと。」と言われると、少し恐ろしく感じる。「前生でお前はこんなふうに通ってきて、そして本当ならこんなふうに苦しまなければならないのだぞ。」と神様から叱られているように思えてしまうのは私だけではないはずだ。 しかし、考え方を変えれば、信仰をしていることによって、自分の通らなければならない因縁を、見る因縁や聞く因縁、おたすけする因縁に変えてくださるということでもある。どんなにひどい因縁があったとしても、お道を信仰している限り、その因縁は見て聞いておたすけをさせていただくだけで良く、自分が苦しまなくて良い。 なんとありがたいことかと。