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10月, 2019の投稿を表示しています

目的と手段を間違えぬように

人間は目的と方法を間違えやすい。方法が目的になってしまわないよう気をつけることが必要だ。 布教の家のときの話だ。カウンターを持たされて、1日に回った件数を数えなければならないのだが、同僚のKは件数が少ない。私1日に100件が最低件数で、多いときには400件くらい回るのだか、彼は50件くらいで精一杯だ。優秀で努力家のKはサボることはないだろうに、なぜ件数が伸びないのかと気にはなっていた。 ある時、一緒に回る機会があった。彼は一件一件が長い。いちいち粘って神様の話を取り次いでくる。おたすけ先も多い。だから件数が少ないわけだ。 目的はおたすけをすることであって、件数を増やすのは手段でしかないのだが、ここを間違いやすい。「おたすけさえしてりゃ、布教なんてしなくていいんだよ。」とある先生が口癖のように仰っているが、その通りだ。 が、人間は間違いやすいと、私は思う。 天理教というのは手段であって目的ではない。目的は陽気ぐらし世界の建設だ。 教会は信仰しやすくするための手段であって、教会の維持が目的ではない。 間違わないように、ときには立ち止まることも必要だ。

おふでさきの最初と最後

詰所では毎晩おふでさきを拝読していて、最後まで読み終えると最初に戻って読むことになっている。このタイミングで、なんとも言えない気持ちになる。 おふでさきの終わりのほうには、「ざねんりいふく」などの言葉が多く現れる。 第一号を読み始めると、陽気ぐらしをさせてやろうという親心を強く感じる。この部分だけ読めば、陽気ぐらし世界はすぐに完成するんだろうと思えてくる。 神様は陽気ぐらしをさせるために、すでに十分な計画を立てておられたのだろう。その上でおやさまを月日の社と定められた。そして、人間の自分勝手な心によって計画は頓挫したところでおふでさきは終わる。 いつも申し訳ない気持ちになる。

ひのきしんの態度

態度に表すというのは、わざわざしなくてもできることもあるが、意識したほうが良い場合もある。理論的に考えて、理の立つように行動すれば良いと私は思う。 ある作業があって、それがひのきしんの場合と仕事の場合とで力の入れ方は違う。悲しいことだが、ひのきしんだから手を抜くという人もいる。 例えば、屋外での作業があったとして、雨が降ったときに、仕事ならカッパを着てでもするという人がいるのなら、ひのきしんでならもちろんカッパを着てでもするべきだろう。 ひのきしんをすることで目に見えない徳をいただける。この徳で生きていくことができるのだから、お金をもらえるだけの仕事よりは尊い。 そう考えるのなら、仕事よりもひのきしんのほうを真剣にするのが自然だ。 まあ、考え方はそれぞれだから何とも言えないが、「ひのきしんなんだから、そんなに真面目にしなくてもいい」なんて言う人のことは聞かなくても良いと思う。

癖性分ねぇ…

ある先生からおてふりを教わった。 その先生は、「親指が離れないように」と注意を促していた。 親指の根本に力を入れると指先が離れるから、指先に力を入れるようにと、かなり具体的なアドバイスをしていた。 で、その先生は、終始、親指が離れていた。 癖性分というのは恐ろしいな。 気をつけねば…