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ひのきしんは何から何まで

逸話篇の46「何から何まで 」という話がある。ひのきしんはこうやってさせてもらうものだろうと思う。ということを以前に書いたような気がするが、もう一度書いてみようと思う。 ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司が増井りんに、「それを料理するように。」と、言い付けた。りんは、出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おりんさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理しておくれ。」と言った。出刃はなかったのである。  りんは、余りのことと思ったので、ある日お暇を願うて、河内へもどった。ちょうど、その日は、八尾のお逮夜であったので、早速、八尾へ出かけて、出刃庖丁と薄い刺身庖丁と鋏など、一揃い買うて来て、お屋敷へ帰り、お土産に差し上げた。秀司もまつゑも大層喜んで、秀司は、「こんな結構なもの、お祖母様に見せる。一しょにおいで。」と促した。教祖にお目にかかって、留守にしたお礼を、申し上げると、教祖は、それをお頂きになって、 「おりんさん、何から何まで、気を付けてくれたのやなあ。有難いなあ。」 と、仰せになって、お喜び下された。りんは、余りの勿体なさに、畳に額をすり付けて、むせび泣いた、という。 神様の御用と思って何かをするときには、そのために必要なものは自分で準備する。準備するためにわざわざ時間を確保する。これがひのきしんだろうと思う。 と書いてみるとわかりにくいと思うので、誤解を恐れずにその真逆を書いてみよう。 「会長さん、これこれこういうことをしたいから、あれとこれと教会で買ってくださいな。」 は違う気がする。もちろんケースバイケースだから一概には言えないが、できることなら必要なものは自分で準備したい。 「会長さん、これこれこういうことをしたいから、あれとこれと買っといてくださいな。お金は後で支払いますから。 も違うように思う。もちろんケースバイケースであるから一概には言えないわけだが、せっかくなら買いに行くのも自分でやって、その時間を神様に受け取ってもらうべきだろう。 「会長さん、これこれこういうことをしなきゃならないから、時間があるときにやっといてくださいな。」 これは最悪だろう。 と、理論的にはわかっているつもりでも、自分もついそうなってしま...